古本虫がさまよう 「ハンガリー動乱」で暴言を吐いた人々たち
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『追想・佐藤寛行』 (佐藤寛行追悼集刊行会編・関嘉彦代表)を読んだ。これは、佐藤寛行氏(政治・労働運動評論家)の追悼集。1930年生まれの佐藤氏は中央大学法学部を卒業した後、社会党(右派)、民社党に勤務した後、独立。
 民主社会主義の理論的な活動を中心に言論活動を展開していた。平成5年に亡くなったそうで、その追悼集。箱入りの立派な本だ。
 各界の人々が惜しむエッセイをまとめたものである。刊行委員会として名の上がっている人の中にも、関嘉彦氏や小松雅雄氏などその後亡くなった方もいる。月日の過ぎ行く速さを感じないでもない。

 追悼の他にご本人の書いたものも何編か収録されている。その中で、 『日本の政党綱領』 (民社研)の中からの抜粋論文を読んでいて、おやっと思った。この本は昔読んだことがあるのだが、それによると、1956年のハンガリー動乱の時、社会党は「一つ」だったが、57年1月の第十三回党大会で、前年10月のハンガリー動乱の評価をめぐって激しい左右対立があったという。

「ハンガリー動乱を勃発させたのは反動的な反革命派の策謀によるものだとして、これを抑えたソ連の軍事介入はやむをえないと述べた左派に対して、この動乱は自由化・民主化を求めた労働者たち民衆の決起だとして、その積極的支持を主張した右派が、運動方針の修正案を提出した。激しい討論の末、運動方針小委員会において、ほぼ二対一ぐらいの割合で右派の修正案は否決された」「東京三田の東交会館の一室にあてられた小委員会会場の一隅に黙然と坐って、この論争にじっと耳を傾けていたのが、いまは亡き山川均氏であった。労農派マルクス主義の総帥ともいうべき氏の党内左派に対する影響力は強かったが、あの舌鋒もハンガリー動乱に関してはみることができなかった」 

 当時の日本共産党はむろんのこと、社会党左派的な大内兵衛などのハンガリー動乱に関する「暴言」の数々は、小島亮氏の『ハンガリー事件と日本』 (中公新書)、及びその単行本版でもある『ハンガリー事件と日本 一九五六年・思想史的考察』 (現代思潮新社)などで詳しいが、社会党左派、日共の国際感覚の鈍さ、ソ連追随愚鈍思考は言うまでもないことだ。
 この時、こうした暴言に「拍手」をしていた人々に、映画『君の涙ドナウに流れ』を見せたいものだ。1956年のこの悲劇を直視したならば、1960年安保で、日本がどういう選択をすべきかは自明であっただろうに……。

 ちなみに、山川均氏は「世界」(57年2月号)で、ソ連の武力介入を一応批判していたにもかかわらず、2カ月後の同じ「世界」(57年4月号)では、ソ連が武力介入をせずに「うっちゃっておいたならば、ハンガリアの民衆の中からしっかりした中心勢力が生まれて、秩序を回復しておったかどうかということも疑問じゃないか。あるいは反対の勢力が外から入って来て、国民の要請に答えたという形式で反対のことをやったかもしれない。こうなると事実と情勢の判断の問題ですからむずかしい」と述べている。
 こういう筆致・コメントに関して、稲垣武氏は「アメリカをはじめ西側の『帝国主義』に関することなら鉈で大根を切るようにスパッと割り切るが、共産主義陣営の欠点や愚行には、にわかに懐疑の雲に身を隠し、犬儒学派的もの言いをするという、スターリン批判以後の進歩的文化人の言説の典型がこの時点で既に山川の発言のなかに現れている。韜晦に満ちた表現ながら、山川はソ連の武力介入容認に傾いているのは明らかだ」 (『「悪魔祓い」の戦後史』文春文庫)と指摘していた。社会党の左右のハンガリー動乱をめぐる内紛に関しても稲垣氏は鋭く指摘もしていた。

 ちみなにハンガリー動乱を考える上で手頃な本は多々あるが、珍しいものとしては、ジェームス・ミッチェナーの『アンダウの橋』 (日本外政学会)がある。
 ちなみに書名の「アンダウの橋」というのはハンガリーとオーストリアとの国境の沼地に掛けられていた名もない小さな木の橋のこと。この橋を渡ってハンガリーから亡命する人々に著者は取材をしている。
 本書によると、ハンガリーでは十歳の少年はソ連のピオニールと同じ少年団組織に加入することができ、十四歳になるとソ連のコムソモール同様の組織に入れるという。そして、そこでは拳銃の操作法などの軍事教練を受け、「西欧を憎み、米国との闘いに命を捧げることを誓った有望な少年たちには、特別課目(手製ガソリン爆弾による米国戦車破壊法)が教え込まれた」という。
 そういうふうに、ハンガリーの少年たちは銃にせよ手製ガソリン爆弾にせよ、ソ連式で教え込まれていたおかげで、いざという時には敵対する相手をアメリカからソ連に変えれば、「即戦力」として役立ったというわけだ。ソ連も因果応報なことをやったわけだ。反ソのアフガン兵士に武器を与えたアメリカが、後にタリバンに四苦八苦するのと現象的には似ている? 武器輸出は考えもの?

 また、以前、本欄でも紹介したが、小島亮氏編『大池文雄著作集1954-61 奴隷の死』 (ぺりかん社)がある。これによると、ハンガリー蜂起当時、日本共産党茨城県委員会常任委員でもあった大池氏は、このハンガリー問題に関して「容認」する党に果敢な反論を行ない、それが遠因となって一九五八年除名されてしまう。この本には、一九五四年から一九六一年にかけての彼の論考が収録されているが、共産主義との訣別、民主社会主義への共感が綴られている。

 「ハンガリー事件は、ソヴエトの政治と党のあり方が本質的な変化をとげなかったことの無慙な結果でもあった。この事件の結果、資本主義諸国の党内の良心ある部分がソヴエトと党の現状の批判に進み出た。フランスでは著名な知識人党員達が多く除名された。イギリスではピーター・フライヤーのブダペストで目撃したハンガリー革命の記録がデーリー・ワーカーから没にされ、彼は進んで党を離れた」 
 ちなみにピーター・フライヤーは『ハンガリーの悲劇』 (日本外政学会)の著者である。デーリー・ワーカーは「赤旗」のようなもの。共産党機関紙。

 大池氏によると、一九五七年三月(臨時増刊)の『中央公論』で鶴見俊輔氏は、ハンガリー事件に関して、「共産党政権もけしからんしソヴェトもけしからんと思う」と述べつつも、「しかし世界民主主義の問題からすれば、あすこで共産党が地歩を失えば非常に弱くなる。従ってソヴェトがあすこで軍事力を発動して、押さえつけたのは正しいと思う。それはしかし、一応の支持であって、本質的に考えれば、相当誤ったものがあそこには含まれていると思う」と語っていたそうな。
 
 日共シンパでしかない鶴見氏は、ハンガリー蜂起を弾圧したソ連の軍事力を「正しいと思う」と述べていたとのことだが、所詮、「戦後民主主義者」である鶴見氏の思想の限界を物語るものでしかあるまい。大池氏やフライヤーのようなコペルニクス的転回を体験することもなく、やがて鶴見氏は「知の虚人」(?)として、一部の人々から讃えられることになるのであろうか? いずれにせよ、進歩的知識人の黄昏は、この時から始まっていたとも言えよう。その程度の知識人に比べると、大池氏はもっと根源的にハンガリー蜂起を捉えていた点で、より優れた知識人であったというべきであろう。


以下、大池氏の本の書評の再録。
 

大池文雄氏の『水戸コミュニストの系譜』 (ぺりかん社)を読んだ。旧制水戸高校中退で日本共産党水戸市委員長、同国際派全国委員会委員、同国際派・所感派統一後茨城県常任委員などを歴任した著者による「水戸コミュニスト」を論じた一書。旧制水戸の先輩でもある梅本克己と、茨城県鹿島郡鉾田町を本拠とする常東農民組合の書記時代に面識を得ていた安東仁兵衛を中心とした評伝でもある。そして「反・反共」、非マルクス主義者を自称していた丸山真男や、いいだももに対する痛烈な批判の書でもある。

 国際派や所感派といっても、イスラム教徒のスンニー派、シーア派同様、僕にはどっちもどっちであって、定義を聞いてもすぐに忘れてしまう。何処がどう違うのか、所詮は同じ穴の……でしかない。
戦後の混乱時の共産主義者の実態がよく分かる本だった。僕などは佐藤昇氏などは高く評価するが、安東・梅本両氏の本はあまり読んでいないので、大池氏がそれほど評価するなら手にしてみようかという気にはなった。

「“丸山なんてマルクスにも行き切れず、さりとて訣別もできないまま、晩年にはスコラ的韜晦を図った学者”と思っています。インテリは皆紳士で暴言を吐きませんが」というのには同感。丸山政治学などは単なる「偶像」でしかあるまい。いや「虚像」か。いや「屁」か?


 大池文雄氏の『私の畸人録』 (ぺりかん社)を読んだ。
著者は一九二八年生まれ。旧制水戸高校時代に梅本克己氏に師事し、中退後、日本共産党水戸市委員長、茨城県常任委員などを歴任するも、一九五六年のハンガリー事件をめぐり党中央と対立し除名されている。その後、「論争社」などを経て、平和相互銀行にも在籍し、ゴルフ場の経営にも手を出している。ゴルフ場に関しては『オーナーが語るゴルフ場の話』 (風濤社)という本があるが、僕はブルジョワ的スポーツは嫌いなのでゴルフには無関心だが、『私の畸人録』はそういう職業体験者故に、さまざまな畸人(保田與重郎、中河與一、岡潔、林房雄、遠山景久、小宮山英蔵、奥村綱雄)との出会い、エピソードが綴られており大変面白い本だった。
 
 中河氏や藤田嗣治画伯に対する戦時中の行ないに関する批判に対して、保田氏は反論もしていたようだ。大池氏の友人でもあった遠山氏は、一時、河野一郎氏の側近でもあったようだが、その時はまだ左翼だったために、彼に猛烈な「洗脳」を行ない、「河野のソ連贔屓は僕(遠山)のせいなんだ。彼が農相時代に鳩山首相とモスクワへ行って、日ソ共同宣言に署名して来た。河野があのお膳立てを一生懸命やったのはそのせいなんだ」と語っていたこともあったそうな。
 
 遠山氏のラジオ関東買収や論争社創設などの裏話は面白い。古本屋で論争社の本は大概揃えたが、ユニークな本が刊行されている。結構な専門書だ(クロスランド『福祉国家の将来』 、西尾末広『新党への道』 、レイモン・アロン『現代の知識人』等)。遠山氏は論争社の前にも出版社をやっていて、その時は大井廣介氏の『左翼天皇制』『革命家失格』などを刊行していたという(これらの本も以前購読した覚えがある)。
 
 雑誌「論争」を創刊する時、編集を大池氏と救仁郷氏に任せると言いながら、小山弘健氏にも任せるという二股を遠山氏が取っていたという。小山氏にも『戦後日本共産党史』 (芳賀書店)などの本があるが、反代々木とはいえ、まだ左翼臭のある人だと僕は思っていたが、遠山氏は小山氏を編集長にして、大池さんたちが補佐するという折衷案を出してきたが、それを拒絶し、両者が直接対決論争し、それを聞いた上で最終的判断を下すことになったそうな。テーマは「現代資本主義論」。小山側には浅田光輝氏も加わって、遠山家でやったが、「大池、救仁郷組の勝ちだな」という判定が下されたとのこと。それは良かった。小山・浅田両氏が「論争」を運営していたら、実際よりもう少し左寄りになっていたことだろう。
 
 平和相互銀行時代は、さまざまな銀行改革案を発案し、そうした路線を支援してくれたものの、後にスキャンダルにまみえた小宮山氏を擁護もしている。夜七時まで窓口を開けていた平和相互銀行はユニークな存在だったことしか記憶していない。学生時代住んでいた町にも平和相互銀行はあったが、すでにカード時代だったために特に利用するということはなかった。
 
 大池氏は、論争新人賞で入選したこともある日本経済新聞社の記者(太田哲夫氏)にも依頼して、当時、平和相互銀行などがフルに活用していた通信回線の一元的管理、要するに「独占」を企図していた電電公社の法案を葬るために一肌脱いでもいる。日経の月曜論壇に法案反対、民間の創意に任せよというオピニオンを野村証券の奥村綱雄氏に書かせたのである。また、平和相互銀行総合企画室編で『岐路に立つ情報革命 通信回線の全面開放を求む』 (徳間書店)なる本も刊行したという。
 競争を否定する銀行業界にあって、ヌードカレンダーなども作っての話題作りも行ったようだし、アイデアマンとしても活躍したようだ。平和相互銀行の小宮山氏は、NHK出身で民主党の小宮山洋子代議士の祖父にもあたるという(自民党の小宮山重四郎氏は実弟)。
 
 その他、文字通りの畸人(?)であった岡潔氏の愛国者的エピソードなども面白い。吉田茂氏が没後洗礼を受けクリスチャンになったのがケシカランとのこと。大池氏の前で「あれは日本人の誇りを傷つけ、日本人の精神的針路をあやまらせます。その罪は許せません」「とんでもないことです」と叱責し、インクビンの箱にあったGペンを鷲掴みにして、畳にブスっと突き刺したそうな。ううむ。

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