古本虫がさまよう 経団連図書館と杉並区立図書館の違いとは?
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経団連図書館と杉並区立図書館の違いとは?
(2017・1・20・金曜日)






村橋勝子氏の『情報便利屋の日記 専門図書館への誘い』 (樹村房)を読んだ。
著者は、経団連ライブラリーに永年勤めた人。生年は略歴に出ていないが、1966年に経団連事務局に入局(就職)したとのことだから、失礼ながらも、まぁ、「(戦争に)勝(つ)子」という名前からして、戦前(戦時中)生まれでは? 古希は過ぎている?
「図書館」といっても、普通の図書館とは異なる。「専門図書館」といえば、専門図書館だが、要は経団連関係者やちょっとした企業人たちが、講演のネタや研究のために必要な資料を、彼女に求め、それに応じて準備をするといった職務についていた人だ。

 1966年(昭和41年)入社(入局)ということで、職務期間中の前半から半ばすぎにかけての「ネット」もなかった時代にそうした司書的な仕事をこなしていたことになる。僕も利用したことのある杉並区立図書館(荻窪)などで、探していた資料と遭遇もしたりしている。
それにつけても、杉並区立図書館の「狭量・偏狭なナショナリズム」で、他県は無論のこと、都民でも、杉並区民か、それに隣接する区民(市民)でないと図書カードを作成してやらない(つまり貸出させない)ようにしてしまったのは愚鈍極まりないというしかあるまい。この前も、仕事で必要なというか見てみたい資料が杉並区立図書館にしかなく、買ってまで参照するにはお値段があまりにも高い本(数万円)。やむをえず、杉並区民の知人にお願いして、本を借りてもらったものだ。
バカな区長、バカな図書館館長がいると、こういう無粋なことを平然とするようになるのだろう。千代田区立図書館よりも酷い?(蔵書は杉並区立図書館のほうが多そうだけど?)。

ともあれ、本書で触れているドイツのナチス政権下の農業大臣であるワルター・ダレ(ー)について、図書館やらいろいろと調べ歩いていく過程も綴られている。
ドイツ語文献は不要で、「詳しいことがわからなければ、生没年と何の専門家だったかくらいの、ごく簡単なことでいいよ」とのリクエスト。経団連の図書館にある平凡社の『世界大百科事典』や小学館の『日本大百科事典』などを見ても、ダレは出てこなかった。日本評論社が1940年に刊行した『新独逸國家体系』(全12巻)にもダレはなかったとのこと。その少し前にライブラリーのリニューアルに際して、第二次世界大戦のころの文献をかなり除籍したとのことで、もしかしたらその中にあったのではないかと悔やんだりもする…。

そこで自宅近くの杉並区立図書館(本館)に出かけてみる。資料事典の類ではやはり見つからず、開架の一般図書を見ていると、宮田光雄氏の『ナチ・ドイツの精神構造』 (岩波書店)にダレがちょこっと出てくる。1895年生まれ、1953年死去が分かる。そのほかのドイツ関連の本をひもとくと、いろいろとダレについて出てきて、とりあえずは…となる。上司に報告し、そのあと、経団連事務局の物知りで知られる同僚に「ダレーって知ってる?」と聞くと、たちどころに「知ってるよ」ということで、「経団連にも大した人がいるもんだ」と。
そんな図書・蒐集・調査などにまつわる「知的エピソード」が綴られたエッセイ集だ。

ウィキペディアなどがある現在だと、ネットでその名前を入れると、たちどころに、この程度の情報は出てくるのだが……。例えば、そのダレをいれると…。

リヒャルト・ヴァルター・ダレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(一部略)

リヒャルト・ヴァルター・オスカール・ダレ(ドイツ語:Richard Walther Oskar Darré、1895年7月14日 - 1953年9月5日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党農政全国指導者。ヒトラー内閣では食糧農業大臣(ドイツ語版)を務め、「血と土」イデオロギーを推進した。最終階級は親衛隊大将位の親衛隊名誉指導者。

生い立ち[編集]
ダレはアルゼンチン・ブエノスアイレス近郊の街ベルグラーノで生まれた。父はドイツ人(ユグノー系)、母はスウェーデン人であった。父は貿易会社の重役だった。両親の結婚生活は幸福なものではなかったが家庭は裕福で、第一次世界大戦の何年か前に国際関係の悪化のためドイツへの帰国を余儀なくされるまでの間、息子たちを個人的に教育した。そのおかげで、ダレは英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語の四か国語に堪能だった。
両親はダレが9歳のとき、ハイデルベルクの学校に通学させるためドイツへ行かせた。1911年に彼は交換生徒としてウィンブルドンのキングス・カレッジ・スクール(英語版)に行き、翌年、残りの家族はドイツへ戻った。その後、リヒャルト(彼は家庭でそう呼ばれていた)はグンマースバッハ(ドイツ語版)の実科高等学校で2年間を過ごし、1914年前半にはゲッティンゲン南部の街ヴィッツェンハウゼンのドイツ植民地農業商業工業学校(ドイツ語版)へ移った。そこで彼の農業に対する関心は呼び起こされた。
ヴィッツェンハウゼンで一学期過ごした後、彼は軍に志願し、第一次世界大戦に出征した。戦争が終わった後、彼は農業で生活をするためアルゼンチンへ戻ろうと考えたが、長年のインフレーションで家庭の経済的事情が厳しく、これを断念した。代わりに彼は研究を続けるため、ヴィッツェンハウゼンに戻った。その後、彼はポンメルンで農場の助手として無報酬の仕事に従事した。そこで復員ドイツ兵の治療を観察したことは、後の著作に影響を与えた。
1922年に彼は研究を続けるためハレに移った。そこで彼は家畜の飼育を専攻し、農学の学位を取得した。1929年には博士研究を完了。この頃、彼は東プロイセンやフィンランドで働くことに若干の時間を費やした。
政治的な覚醒[編集]
ドイツ青年としてダレはまず、土地への回帰に傾倒する民族主義的な青年のグループ「アルタマーネン(ドイツ語版)」に加入した。ダレが「北方人種の将来は土に結びつけられている」という観念を展開し始めたのはこうした背景によるものであり、それは「Blut und Boden(血と土)」として知られるようになった。「Blut」すなわち「血」は人種あるいは血統を表現し、「Boden」は土、領域、または土地と解釈することができる。この理論の本質は、占有され耕される土地と人間との間の長期にわたる相互関係である。1926年に発表されたダレの初めての政治的な論文は内なる植民地化に関するもので、失われた植民地を取り戻そうと試みるドイツに反対する内容であった。とはいえ、この時期における彼の著作の大部分は家畜の飼育の技術面に関するものである。
彼の最初の著書「Das Bauerntum als Lebensquell der nordischen Rasse(北方人種の生命の源としての農民階級)」は1928年に書かれた。彼は森の保護を大いに強調してより自然な土地管理の方法を主唱し、家畜を飼育するに際しては、もっと開放的な空間と空気が必要だと主張した。こうした主張を聞いて感銘を受けた人々の一人がハインリヒ・ヒムラーだった。ヒムラー自身も「アルタマネン」のメンバーである。
二つの主要な作品において、ダレはドイツ農民を「ドイツ国民の文化的人種的中核を形成し、北欧人の先祖を持つ均質的な人種集団」と定義した。北欧人の出生率は他の人種より低いので、北欧人は長い間、絶滅の脅威のもとにあった。

1937年12月13日、ゴスラーの農業コミュニティーの会議で、「血と土」と書かれた食料農業省のロゴの前で挨拶するリヒャルト・ヴァルター・ダレ
ダレは1930年6月1日に国民社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号248,256)して活動的な党員となり、農民をナチスに加入させるため1930年夏に農業に関する政治組織を設立した。彼はこの組織に対して三つの主要な役割を果たした。すなわち、都市政府に対する武器として田園地方の農民の不安につけ込むこと、ナチスの忠実な後援者として農民を味方につけること、将来の東側の征服地でスラヴ人にとって代わる移民として使える人々の選挙区を獲得すること、以上の三つである。すべてにおいて、彼は田園地方を国家社会主義に向けることにかなりの成功をおさめた。
ナチスが政権を掌握してすぐにダレは食糧農業大臣(ドイツ語版)、人種移住局長官、全国農民指導者に就任し、1933年から1942年までつとめた。1940年にドイツ軍がフランスを占領したことで、ドイツの食糧問題の危険性はなくなったため、関心を持っていたが生産性の低さから表立って推奨できなかった神秘家ルドルフ・シュタイナーのバイオダイナミック農法への支持を明らかにし、「バイオダイナミック農法は真理であり」、ドイツの荒廃という「袋小路から抜け出す唯一の方法である」として、党員に支持を呼びかけた[1]。彼は独立小農民を保護する世襲農場法の制定を進めたが、この法律は論争を引き起こした。彼はまた、北海から土地を開発することにも尽力した。
ダレは親衛隊人種及び移住本部(猛烈に人種差別的で反セム主義的な組織)の設立に際して主導的な役割を果たした。彼は「人種と領域」に対する計画を発展させ、「我が闘争」で詳述された「東方への衝動」や「生存圏」に代表されるナチスの膨張主義的政策にイデオロギー的な背景を与えた。選択的な交配にもとづいてドイツ人の人種的貴族を創造する目標を持っていたヒムラーにダレは強い影響を与えた。しかし後に、ダレは空論的に過ぎるとヒムラーは考えるようになり、ダレとの関係を絶った。また彼は、概してヒャルマル・シャハトとの関係がよくなかった。
ダレは大臣在任中から喘息、湿疹、肝臓病に悩まされており[2]、1942年5月23日から病気療養のために大臣職を休職し、食糧省次官のヘルベルト・バッケが大臣職務代理を務めた。ダレは食料大臣の地位は保持したものの、1944年4月1日に辞任した。
戦後[編集]
ダレは1945年に逮捕され、1948年から開かれたニュルンベルク継続裁判の大臣裁判にかけられた。より重大な(特に大量虐殺に関係する)嫌疑の多くに関しては無罪となったが、懲役7年の刑に処せられた。しかし拘留期間はほとんど過ぎており、1950年に釈放された。出所してから死ぬまでの3年間は、バイオダイナミック農法の普及活動に心血を注ぎ、戦後復興で化学肥料が不可欠であった西ドイツの趨勢に、バイオダイナミック農法の「手触り」「生きている土壌」「慣習の重視」という神秘的な言葉で対抗した[3]。有機農業運動家カール・カールソンのペンネームでも活動した[3]。1953年9月5日、アルコール依存症に誘発された肝臓がんのためミュンヘンの病院で死去した。
現在、ダレの著作は、都市生活の頽廃と自足の気高さを信じる右翼過激主義者に相当な影響を与えていることが判明している。
人物[編集]
米軍の拘留記録によると身長は180センチである[4]。
家族[編集]
彼は生涯に二度、結婚をした。1922年にアルマ・シュタート(Alma Staadt)と結婚したが1927年に離婚し、1931年にシャルロッテ・フォン・フィッティングホフ=シェル男爵令嬢(Charlotte Freiin von Vittinghoff-Schell)と再婚している。アルマとの間に二人の娘をもうけた。
出典[5]
1931年4月16日、親衛隊少佐
1931年12月10日、親衛隊大佐
1932年12月24日、親衛隊上級大佐
1933年5月13日、親衛隊中将
1934年11月2日、親衛隊大将
Michael D. Miller (2006) (英語). Leaders of the SS & German Police, Volume I. Bender Publishing. ISBN 9329700373.
藤原辰史 『ナチスドイツの有機農業「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」(新装版)』 柏書房、2012年(日本語)。ISBN 978-4-7601-4152-4。


かといって、百科事典レベルとくらべても、ウィキペディアなどの情報が的確で正しいという保障はない。この前も、ウィキペディアに出るほどの知名度のある知人に、ある問い合わせをしたことがあった。ウィキペディアによれば、1955年××月より、フルブライト奨学生としてアメリカの〇〇大学に留学とあった。そのときのアメリカのある事情について、聞きたくて連絡をとったのだが、美智子さんが安保闘争で亡くなった時には日本にまだいて、そのあと、留学したとのこと(だったかと)。ううむ…。

探求書も、ネット時代だから、あっという間にお金さえ惜しまなければ瞬時に手に入る…と思ったら、やはり間違い。100円均一の店頭の軒先コーナーなど、古本屋とてわざわざデータに打ち込まないだろうし、ネット販売に手を出していない古本屋もまれにある。一軒一軒歩いて棚を見て均一台を覗き込み、おや?と発見する掘り出し物の古本とてまだまだある。そこに古本屋行脚する楽しみもあるというものだ。

とはいえ、やはり便利なものは便利。学生時代、大学の図書館や国会図書館などはあまり利用しなかったが、好きな学者の著作がどれだけあるか調べるために国会図書館に出かけ、あの索引カードの入ったアレを取り出して、せっせとメモをしたのも懐かしい思い出。いまは、パソコンから国会図書館に入り、名前をいれれば、たちどころにそのリストが出てきてプリントできる。将来は雑誌程度なら本文データも即座に入手できるようになるのだろうか? 恥ずかしながら国会図書館ももう20年近く行ったことはない。「電子化」されているのだろうが…。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!

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