古本虫がさまよう ランチどころかディナーに1000円は贅沢かな?
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ランチどころかディナーに1000円は贅沢かな?
(2016・9・6・火曜日)





毎日新聞の電子版にこんな記事が出ていた。

「1000円ランチ」女子高生をたたく日本人の貧困観
2016年8月31日 藤田孝典 / NPO法人ほっとプラス代表理事
貧困バッシング(1)
 貧困について語り、NHKニュースで取り上げられた女子高生に対するバッシングが止まりません。ネットやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)には「貧困をたたいてるんじゃない、貧困のふりをしてることをたたいているんだ!」「映画やランチを楽しんでいるのに貧困? 支援? ふざけるな」「NHKは捏造(ねつぞう)をやめろ」といった声があふれています。
 18日放送のニュースで女子生徒は、母子家庭の経済事情で専門学校進学をあきらめたことを明かしました。
 アパートの部屋に冷房がないこと、パソコンの授業のために母にキーボードだけを買ってもらって練習したことなど、番組は母と2人暮らしの女子生徒の暮らしぶりも伝えました。その映像にイラスト用の高価なペンが映ったことから、女子生徒のものとされるツイッターが特定され、1000円の昼食を食べていたこと、好きな映画を見に行っていたことが攻撃されました。
 女子生徒をたたく人たちは、「彼女は本当の貧困ではない。飢餓寸前になるまで助けるべきではない」と主張しているように見えます。ある国会議員もその論調に乗ったツイートをしました。ここに、貧困問題を考える上で重要なポイントがあります。
 つまり、「貧困とはどのような状態を指すのか」「貧困であるかどうかを決めるのはいったい誰か、そしてその基準は?」という問題です。

その社会の「普通の暮らし」ができているかどうか
 
「貧困」の言葉から何を想像するかは人それぞれですが、多くの人は、貧困とはものを食べられず、服も買えず、住むところにも困っているという状態をイメージするでしょう。
 このように、肉体・生命維持で精いっぱいの極限状況を「絶対的貧困」と呼びます。発展途上国で見られるタイプの貧困で、国連は、低所得、栄養不良、健康不良、教育の欠如など、とうてい人間らしく生きられない状態と定義しています。
 貧困について、特に欧州では、19世紀半ばから議論が始まりました。絶対的貧困は社会が対応しなければいけないという認識が広がり、20世紀に入ると、社会保障で貧困をなくす動きにつながりました。その意味では、先進諸国では絶対的貧困は解決された、とも言われています。
 1960年代になって、英国の社会学者ピーター・タウンゼントが「相対的剥奪」(Relative Deprivation)という概念を提唱しました。「最低限のものを食べられて、着る服があれば貧しくないのか、人間的な生活と言えるのか」と問題提起をしたのです。これが「相対的貧困」という概念です。
 タウンゼントはいくつかの「剥奪指標」を示しました。ちゃんと食事をしているか、外食をしているか、友人関係を維持しているか、習い事や教育にお金をかけているかといった指標です。
 冷蔵庫を持っているか、ホームパーティーを開いているか、という項目もありました。国によって違いますが、通常の人が享受しているこれらの指標がもし剥奪され、その社会の人間が考える「普通の暮らし」ができていなければ、その人は「相対的に貧困である」と考えられます。
 社会生活から剥奪されたものをとらえ、先進国の貧困、普通の暮らしを定義しようとしたわけです。そして、国民の半数から60〜70%ほどが実現している指標が欠けている場合、何らかの支援、所得補償が必要と判断されます。
 この概念は「貧困を再発見した」と言われました。欧州ではこうした議論が半世紀以上続き、貧困を巡る議論はすでに成熟しています。絶対的貧困と相対的貧困の混同は起きません。
「支援を受けたいなら貧乏人らしくしろ」は傲慢だ
 ところが、今回の貧困バッシングでは、女子生徒の1000円ランチがたたかれました。「貧困であることをアピールし、支援を求める高校生がランチに1000円もかけるとは何事か」という偏狭な批判です。貧困なのだから映画を見てはいけない、アニメグッズをそろえてはいけない、と求める批判者は、支援されるべき貧困を「絶対的貧困」と考えています。そして、「貧しい者は貧しくしていろ」という懲罰的態度を無自覚に相手にぶつけています。
 「貧乏人は貧乏人らしく」という目線は、貧者を「劣った者」と見なし、隔離した16世紀英国の貧者隔離思想に近いものです。
 昔の英国社会では貧困は罪でした。本人が怠惰で、なまけていて、努力する意思もないから貧しくなったのだと見なされました。貧困の「個人原因説」です。貧困者はムチで打ってでも働かせるべきだと考えられ、懲役にも近い形の収容所に送り込まれていたのです。
 日本の憲法第25条は、相対的貧困の考え方を先取りする形で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっています。にもかかわらず、日本ではいまだに貧困バッシングが続いています。2012年の生活保護バッシングでも同じことが起きました。
 次回も解説します。



NHKのその番組はたまたま見ていた。母子家庭なのかな? と感じたりもした。おかわいそうにと思いつつも……。ちょっと?とは感じた。
家の中は、ごく普通の家庭なみに家具などがあったようにも見えたから、いわゆる「貧困」とは異なるだろうし……と。高校から上の「学歴」に進むのが経済的に困難だというのは昔からあることだし……。だが、そんな騒動が起こっていたとは知らなかったが……。

ただ、ランチに関しては、僕は原則ランチを食べないようにしている(1日2食主義)。節約&節食(ダイエット)のため。
晩飯も一人で外食する時は、原則1000円以下にするようにしている(1000円を超える時は、手帖にチェック。例えば8月は、家人のメモリアルディーがあったので某日は二人で一万円を超えたことがあった。反省? 釣った魚には餌を与えるな!? 某日は、行きつけのバーで、知人に奢ったりして二人分で8000円の日が一回。
7月は、回転寿司屋で一人で少し豪華に食べすぎて1640円の日が一回あった。「やよい軒」に行って、「鰻の蒲焼定食」(1280円)を食べたこともあったか。あと、行きつけのバーに行って一人飲みで4000円ちょっとの日が。反省!

とはいえ、原則昼飯を食べないので、それが500円とすれば、その節約分で豪華ディナーをまかなっているといえようか? 本代にしても、最近は古本屋代金は月数千円程度では?)。

時々外食する、やよい軒などは大概630円のしょうが焼き定食。「いもや」の豚カツ定食は800円だ。スーパーで買う時は、もちろん1000円以下。なるべく午後7時すぎに、「割引」になっているものを優先する……。自炊する時は、インスタントカレーが中心。

だから、ランチが1000円と聞けば、ちょっと、ふ~ん、贅沢ですな?とは思うかもしれない。でも毎日というわけでもあるまいし……。
世の中、昔から食費を節約して、いろいろと他に必要なものを買うといった「貧困」はよくある話。記事にあるような「絶対的貧困」は、北朝鮮などでは日常的だろう。日本ではご指摘のとおり、「相対的貧困」がいろいろと問題になってきているのだろう。世の中には、日本やアメリカの「相対的貧困」をケシカランと大騒ぎし、アフリカなどなら「絶対的貧困」も大問題だと大騒ぎするのに、共産圏などの「絶対的貧困」には眼を瞑る不可思議な人が多くないか?

大躍進時代や文革時代の中共なども「絶対的貧困」が支配的だったが、人民の眼は輝き…と、靴を履けない少年たちを賛美していたのは誰だったか? ご招待で訪中した進歩的文化人・作家たちだった(例外は曽野綾子さんぐらいか?)。当時の中共は飢餓輸出、核兵器開発に躍起となり、人民の生活など蔑ろにしていた。そんな中共を賛美していたのは誰だったのか? 真摯に反省したのは、長島陽子さんぐらいか? (『中国に夢を紡いだ日々 さらば「日中友好』 論創社)。
今日から見て、わりと格差がなくて理想視される1980年前後の日本。当時、日本で中流意識をもつ層が多くなったが、それは幻想だと大騒ぎしていたのも進歩的文化人たちだった(岸本重陳氏『「中流」の幻想』 講談社)。
そしてモノの豊さでは幸せになれない—などと主張していたのも進歩的文化人たちだった (中野孝次『清貧の思想』草思社)。
そういう人の中には、清貧ブームで印税が沢山入って、別荘を買ってウハウハという人もいたかと? やはり一定の「モノ」があると人間、幸せに感じるものだ。狭すぎる家よりは、ちょっと広めの家のほうがいい。体重が55キロを超える妻より、若い時の45キロぐらいだったころの妻のほうが、今現在、しわは多くてもまだ我慢できる?

でも、自分で稼いだお金をどう使おうと勝手。余裕があれば、新刊本を次々と買って、それを所蔵する本棚を次々と買うのもいい。余裕がなければ、本は図書館で借りて読んでもいい。だからといって、図書館で本を借りて読む人が、新刊書店でアマゾンで次から次へと本を買う人をうらやましく思う必要があるだろうか? ない! 昔から図書館で本を読んで勉強する人はゴマンといる。そして食費を節約し、どうしても買いたい本を買う…という事例はいくらでもある。偉人なんかの自叙伝を読めばそんな話しがいくらでも出てくる。
ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』 (新潮文庫ほか)にも出てくる。そういう「相対的貧困」をあまり言いふらすのはいかがなものかと思わないでもないが、社会に訴えて、「相対的貧困」を解消するように向かうのも決して悪いことではあるまい。

ただ,奨学金などに関しては、日本では原則としてだが「能力に応じて教育を受ける」権利は保障されているだろう。無利子どころか、返済不要、さらには付与される奨学金制度はそこそこある。高校や大学にもある。専門学校にもある。知人のお子さんは茨城の常総学院や専修大学で、合格時の成績が優秀のため、在学中の学費一切免除と言われた(にもかかわらず別の高校、別の大学に進学したが)。だが、その制度を受け入れたら、年間数十万円~百万単位の支出はゼロになるのだ。あとは、朝日か産経の新聞奨学生になればいいではないか。奨学生になったら、キャンパスで過ごす時間が減るからいやだなんて言う若者がいれば、あんた、ちょっと甘えていないか?と言ってもいいかもしれない。得るものがあれば失うものがある--という現実は認識すべきだよと。なにからなにまで思い通りになるなんてことは世の中にはないんだよと。

もちろん、勉強ができるようになるには塾通いが必要、貧困家庭では塾にも行けないなんていう声もあるかもしれないが、学校教育を受ける権利を保障するのが原則。塾の面倒までは? そもそも進歩的文化人や日教組は「塾」を敵視していなかったか?

テレビなどでは、そうした塾に行くお金のない子供たちのために、「塾」のような形で勉強を見てくれるボランティアの学生集団があるとか? いやはや、それは立派なこころがけ。でも、その人たちにまで公的支援をする必要はあるのか。ボランティアは大事だから?

ともあれ、親がそこそこ金持ちで、小学生の時から英語塾に通わせても、英語が話せない人だっている。両親がヤンキーで高卒・中退レベルでも、子供は医学部なんて例もある。遺伝子や環境ばかりじゃなくて、突然変異やら、いろいろと世の中はあるのでは? 顔だってそうだろう。父親似だったり母親似だったり、どっちにも似ないで、祖父母似だったり?

とにもかくにも、 「制度的な保障」が一定レベルでなされていれば、あとは個々人の能力の問題。進学できないのは、貧乏だったから…とまで決めつけるのはいかがなものかと思わないでもない事例もあるのでは?

NHKテレビにて紹介された人とは関係ないけど、生活が苦しくて〇〇もできないとか、よく主婦や母親などがコメントすることがある。古女房などは、そういう番組を見ていて、そういう若い母親などが「茶金髪」などにしていると、その染め代金だけでも節約すればいいのにとよく言う。まぁ、黒髪でも白髪染めをしていることもあるし、ダイエットと称して、尻振りダンスの一万円ちょっとするものを買って効果がないのは機械がおかしいからだと放りっぱなしにしておきながら、亭主の古本代には無駄遣いするなと難癖つける困った中年女性もいるようだが……。

無駄遣いはなるべくチェックし、我慢すべきものは我慢し、その上でどうしても必要なものを…という思想は決して間違ってはいないと思う。どんな所得層の人とて、そうした節約や、絶対必要な出費かどうかなどの比較をしながら生きているのだ。なんでも社会のせいにするな—というわけではないし、一方的なバッシングなどもおかしいだろうが、そう言われるような「余地」をなるべくなくした「清貧」の生き方を模索する必要もあるのでは?
家屋があれば、まぁ、猛暑でも、日中は窓を開ければしのげるもの。扇風機もない人もいるかもしれないけど? 一定の我慢、節約をした上でのSOSのほうが理解もされやすいだろう。
ということで、村瀬秀信氏の『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』 (講談社文庫)を読んだ。

内容紹介→収録されているのは、吉野家、ロイヤルホスト、CoCo壱番屋、びっくりドンキー、餃子の王将、シェーキーズ、とんかつ和幸、サイゼリヤ、かっぱ寿司、レッドロブスター、牛角、マクドナルド、蒙古タンメン中本、築地銀だこ、日高屋、バーミヤン、すき屋、てんや、リンガーハット等、おなじみのチェーン店ばかり。著者独自の視点から、各店の魅力と栄枯盛衰を綴る。
「70年代生まれの我々が、子どもの頃から慣れ親しんできた味は、チェーン店のものではなかったか」。安くて便利、そこそこ美味くて気軽だから、今日も自然と足が向く。誰もが知る35店の「あるある」と「なるほど」が満載。気鋭のコラムニストが綴った、雑誌「散歩の達人」の人気エッセイを、大幅に加筆して文庫化!



よくよく考えれば、元版・単行本(交通新聞社)を以前読んでいたかとも……。再読だったのか? 単行本も文庫版も図書館で借りて読んだから「被害」はなし?

僕の好きな「やよい軒」なども登場している。席に常備されている「漬物」が美味くて、これだけでご飯がお代わりできるとの指摘に、改めて同感!

先日も、女房元気で外遊び(留守)なので、晩飯を「やよい軒」で食べた。いつものしょうが焼き定食(630円)にも飽きたので、なんと「厚切りカルビミックス定食」(980円)に挑戦。この前はミニ唐揚げ無料クーポンもあったということで奮発して「鰻の蒲焼定食」(1280円)にチャレンジ。今回も納豆無料クーポンがあったからこそのチャレンジ? 

納豆があったために、漬物(無料)は三分の二程度しか食べられなかった。ご飯は二杯お代わり(計三杯)。カルビは「厚切り」というよりは「薄切り」? ミックスのえびは可愛い小海老チャンだったが……。とにもかくにも満足。1000円でおつりがくるのだから。全店全席禁煙。ここの「やよい軒」は、以前、立ち寄った時、出入口外に「灰皿」が置いてあった。さっそくテーブルにあった無料ハガキを使って、こんなの邪道、ドアの開け閉めの時に店内に悪臭が流入する、しかも、客ではなく、単なる通行人が、利用していること多し…と投書したら、そのあと、撤廃したようでなにより。なにしろ、以前、立ち寄ろうとしたら、タバコを吸っているバカがいたので、中に入れず食べるのを断念したこともあったのだから。まともな投書のハガキを読んで、すぐに改善する経営者が運営する店はいいチェーン店ですな!

禁煙の「シズラー」も出てくる(ここはちょっと高い。1000円以下では無理かも)。ここも店によっては出入口に「青空喫煙所」を設置していたりして抗議したことがある。
僕が利用したことのない「チェーン店」(蒙古タンメン中本など)も登場。「東京チカラめし」の盛衰なども参考になった。
新聞などにクーポンなどがついたチラシが時々挟まっている。ガストなどは妻が時々切り抜いている。やよい軒は僕が切り抜く。「てんや」などはホームページに割引券があるんだっけ?

引き続き、松本圭司氏の『チェーン店B級グルメメニュー別ガチンコ食べ比べ』 (双葉社)を読んだ。同様のチェーン店の定番が紹介されている。やよい軒も出てくる。

さらに、南清貴氏の『行ってはいけない外食』 (知的生きかた文庫)を読んだ。左翼イデオロギー的な筆致ではなく、食品専門家的な視点からの啓蒙書といったところか。食品添加物をかなり批判はしている。僕は、左右の全体主義者や「容共リベラル」ほど、食品添加物を敵視はしていないのだが……。コンビニのサラダは食べないほうがいいとか、ファミレスレベルのサラダバーへの批判などは、ふうむ、そうかもしれないなと思ったが。回転寿司のアナゴはほとんどチリ産のウミヘビだとか? ううむ。ラーメンのスープを全部飲み干すのは危険だとか(飲み干すことが多い?)。ホテルのバイキングも、一部、料理人が公開制作をしているけど、それ以外は、冷凍パックの調理済み「仕入れ品」ばかりとか。ううむ……。「やよい軒」はどうなのかな? でも、いくらちゃんとした料理を提供していても、その店が喫煙者迎合店なら何の意味もなかろう。この前、家人のメモリアルディもあって、渋谷エクセルホテルのレストラン(全席禁煙)で食事をした。わりと手頃な選択可能な料理プランもあり、ここは意外と穴場?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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