古本虫がさまよう 享年65の神谷美恵子と享年19の粟谷康子に共通する「日記」
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享年65の神谷美恵子と享年19の粟谷康子に共通する「日記」
(2016・8・18・木曜日)





昨日(水曜日)は、黒磯駅周辺を少しブラブラ。駅前近くのレストランでオムライス(税込1000円)をランチに食べる。久しぶり。我が古女房の作るオムライスは、チキンライスに「玉子焼き」上乗せみたいな代物。それに比べると美味。ただ、ここは開店から午後3時までのランチタイムのみ禁煙。そのあとは喫煙者迎合の店となるので、めったに利用できないのだが?

こんな田舎(?)にも「ドン・キホーテ」がある。そこを覗く。ちょっと買い物をして、また駅前に戻り、駅前の喫茶店で、たっぷりロースト(500円税込)を飲む。ここは店内終日禁煙。ただ、入口脇に喫煙可能テーブルを設置しているのがちょっとなぁ……と。でも、まぁ、禁煙席の奥の奥に坐ればまぁ被害はないから……。

店内で、 『神谷美恵子日記』 (角川文庫)を読了。ブックオフで108円で買った本だが、まずまずの内容。1914年生まれで、1979年、65歳で死去。神谷氏の本は積んどくしている本は数冊あるが、ちょっととっつきにくい感じであまり読んだ記憶はない。

本書は、戦前の1939年・25歳の時から亡くなる65歳まで、飛び飛びというか、断続的に綴られた日記を収録している。文庫カバーには本人の上半身写真が使われている。決して美人ではない。でも、聡明な顔だち。当時としては、晩婚で嫁ぎ、女医であり、大学の教師であり、主婦であり、研究者としてはハンディを背負いつつ、同じく研究者である夫を支えたりした日々が綴られている。1976年、62歳の時の7月3日の日記には、

「N(夫)との結婚30周年記念日。よくも私をガマンしてくれた、とNへの感謝が先に立つ。すべて「み手に支えられて」乗り越えてきた三〇年。感慨無量…」と。

我が妻の結婚30周年時の日記を盗み見れば……。2014年3月某日……。

「古本虫太郎との結婚30周年記念日。よくも私もガマンしてきたものだ、と夫への怒りが先に立つ。すべて「古本に重みに耐えて」乗り越えてきた三〇年。あぁ無情…」と書いてあった?

ともあれ、神谷氏の真摯な生き方が綴られている日記を読みつつ、あぁ,あの人(女性)も戦争で死ななければ、こんな人になったのではないかと連想した。という「あの人」とは、門田隆将氏が『康子十九歳 戦渦の日記』 (文春文庫)で描いた粟谷康子さん。神谷氏と彼女とが重なって見えたからだ(この本のカバーにも、粟谷さんの上半身写真が使われている。これまた決して美人ではないが聡明な感じである)。


太平洋戦争下、若者はどう生き、どう死んでいったのか→昭和20年11月、原爆の2次被爆によって19歳という若さで逝った粟屋康子。粟屋仙吉・広島市長の次女である。東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属専攻科の女学生だった康子は、原爆で瀕死の重傷を負った家族を助けるために、東京から焦土と化した広島に向かった。
戦後60余年を経て、作家・門田隆将が、康子の残した日記と手紙をもとに関係者を訪ね歩き、生と死のはざまで揺れた若者たちの青春群像をノンフィクション作品として初めて描き出した。亡くなるまで克明な日記をつけていた康子の悲壮な日本への思いと家族愛とは――。
「特攻に行く人は誇りです。でも、それを強いるのは、国として恥だと思います。特攻はあくまで“目的”であって、“手段”であってはならないと思うの」
刻々と戦況が悪化する昭和20年、東京・十条の第一陸軍造兵廠に勤労動員された学徒たちには、次々と召集令状が舞い込んでいた。その中で康子に思いを寄せ、特攻を志願する台湾青年に向かって康子はそう言った。死ぬ「意味」と生きる「価値」……揺れ動く若者の感情が溢れ出る日記は、当時の若者たちの毅然とした生き方を現代に伝えている。康子を思い、青年が台湾に植えた赤いバラは今も咲き続ける。世界的ベストセラーになった「アンネの日記」を上回る感動の実話



神谷氏の父も、新潟県知事や東京市助役や文部大臣を歴任した高級官僚の前田多門氏。父と共に戦前、アメリカに滞在したりしたこともある。エリート階級の婦女子であった。
粟谷康子さんも同様。父親は広島市長などを務めた高級官僚(8・6の原爆投下で死亡)。彼女の日記も、門田氏の本で縷々紹介されている。19歳で亡くなったので、それまでの日記。神谷氏の本は、彼女が25歳の時の日記から始まるが、遜色ない内容といえようか。

戦後71年ということで、ラジオを聴いていると、戦争は絶対悪ということで、そういう視点から戦争はしてはいけないと語る人々のコメントばかりが流れていた。それはその通りで異論はない。神谷氏は、戦時下の日本で、自宅が全焼しながらも戦後も生き延び、数々の著作も残した。その点、粟谷さんは、二十歳前で亡くなり、生きた証はほとんど残っていない。その点だけを考えても、戦争の無残さはいうまでもない。

ただ、日本が「戦争を放棄」したとしても、「戦争は日本」を放棄しないという名言もある。今も、生きている人で「戦争体験」を語る人はいても、実際に戦場で戦ったという人はもうほとんどいない。いても、おおむね90歳以上だから少数派。90歳以下の80代世代の人たちは、せいぜい、子供時代の空襲などによる「戦争体験」を戦争だとみなして、戦争は許せない、絶対悪だと指摘するのがふつうであろう。

だが、なぜ、「空襲」による悲惨な戦争体験をしたのか、なぜ、自分たちの住むところに敵軍が上陸し悲惨な地上戦を体験したのか……。
要は「同盟国」の選択を間違え、自己利益の追求ばかりに躍起になったから…という戦略ミスがあったからこその、悲惨な戦争体験であったという現実をよくよく見据えて、そういう「過ち」を二度としないという思考力を持つことが肝要なのではないか。
単に、戦争は悪、だから軍備を持たないのがベスト…なんていうのは、独りよがりの、戦前の「空想的軍国主義」と同様の「空想的平和主義」であり、かえって戦争を招くことになりかねないだろう。反省すべきは「空想的思考」なのだ。
日本は「神の国」だから、「大和魂」があるから、決して負けない--日本は「島国」だから、「平和憲法」があるから、決して侵略されない--。どっちも愚考では?

かつての日本のような「傲慢」な「狭量なナショナリズム」を、21世紀になっても未だに国家規模で推進している国があるかないか、よくよく考えてみるべきだろう。そういう国家に対して、どう対処していくべきか? 戦争は悲惨だから、軍事基地のない日本を…なんて単細胞すぎる議論ではないのか?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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