古本虫がさまよう 人生、好きなことだけやれば(あと性悪女にひっかからなければ?)ノーベル賞を受賞できる(かもよ?)
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人生、好きなことだけやれば(あと性悪女にひっかからなければ?)ノーベル賞を受賞できる(かもよ?)
(2016・5・10・火曜日)






日経新聞朝刊(2016・5・9)に、ノーベル賞受賞者である中村修二氏(1954年生まれ)の、日本の大学教育に関する批判記事が出ていた。かつて、僕が18歳の時に抱いた感じと瓜二つだ。ということは……、僕も頑張ればノーベル賞を取れた? なぜ取れなかったのか? 記事を読んで考えてみた?


だまされた、工学部を後悔(中村修二氏)
失敗から学ぶ 2016/5/9 3:30
 「失敗から学ぶ」。各界で活躍する成功者たちも、苦い思いをバネに成長してきた。その原点を探る。青色発光ダイオード(LED)の開発でノーベル物理学賞を受賞した中村修二・米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授に聞いた。
 「だまされた」。1973年、徳島大学工学部へ進学した私は自分の進路を後悔した。
 愛媛県の公立高校時代は理論物理学者や数学者に憧れていた。大学受験の際に担任の先生から「理学部じゃ飯が食えない。工学部へ行きなさい」と諭され、理学部に進学するのをあきらめた。
 物理や数学は得意だったが、暗記が苦手で歴史や地理、国語が大嫌いだった。「大学に進学したら好きな勉強ができる」と教師や親にいわれ、受験勉強をしてきた。入学したら、好きな物理を徹底的に勉強し、宇宙全体の動きを説明する法則を発見する。そんな夢を描いていた。
 それなのに、心理学や国文学、憲法の講義に閉口してしまったのだ。しかも教養科目は必修だから、選択しないわけにはいかない。好きな物理の講義は週に1回ほどしかなかった。
 仲のよかった友人3人も徳島大工学部を志望していた。成績が同じくらいだし、「このくらいなら合格するな」と考えて志望校を決めた。初志を貫徹せず、周囲に流されて工学部へ進学したことを今も後悔している。
 裏切られた思いが募り、大学へ行かなくなり、友人との付き合いも断ち切る

 私は一般教養を大学で学ぶ意味が理解できなかった。常識がないとか純粋だったといってしまえばそれまでだが、自分の興味のあること以外は大学ではやりたくなかった。だから自分で好きな勉強をしようと考えた。
 友人たちに「わしゃ、勉強する。過去のしがらみを絶つ」と宣言した。それまで付き合いを大事にしてきたので、みんなきょとんとしていた。
 下宿に引きこもり、物理や数学の専門書を読みあさった。知識がある程度身につくと、哲学書に走った。世の中や科学のことを考えたかったからだ。考えることは小さなころから好きだった。
 しかし、有名な哲学書でさえ、すでに自分なりに考えて結論を出したようなことしか書かれていない。これは目からうろこだった。自分でとことん考えることが大事なのだ。大学で一番ためになったのはこのときの経験だ。
 一人で考え抜いて成果を出す。研究者としての私のスタイルは、この大学1年のときに基礎ができたと思う。
 前例を参考にできないことこそ「自分の頭で考え抜くことが大切だ」と説く
 青色LEDの研究開発は実験しては考えるの繰り返しだった。最初は先駆者の成果を試したが、それ以降は参考にしようと思っても先行事例はほとんどない。いくら論文を読んでも資料を当たっても無駄だ。
 LEDの素材を作る過程で何度も失敗した。とにかく何度も何度も実験し、なぜそうなったのかをとことん考えて装置を改良し、また実験した。「20世紀中の実用化は不可能」といわれた青色LEDについて、自分なりの理論を築いていった。苦労はしたが、好きな研究だったからどんなことにも耐えられた。有名大学の出身でなくても、田舎者でも、がんばれば世界レベルの仕事ができるという証明ができたのではないかと思う。
 現代は先の予測は難しい。だからこそ、過去にとらわれず、懸命に考えて工夫することが大切だ。とことん自分の頭で考えれば、いずれ道は開けるはずだ。



ううむ、入学時点での絶望感など、僕もまったく「同じ体験」をしていたではないか? 

ただ、この記事で首を傾げたのは、工学部でなく理学部に行っても同じだったのではないか(理学部に行っても、教養課程で、文系課目を強要されるのは同じだったと思うから)。

ともあれ、中村氏は1954年生まれ。僕より数歳年上になる。僕が大学に入学したころも、ナンセンスともいうべき教養課目の「強制」は同様だったかと。ただ、僕は文系。中村氏とは真逆で、物理(Ⅰ)は大嫌いというか苦手。生物(Ⅰ)も。化学(Ⅰ)も。地学(Ⅰ)はまだUFOがらみで関心があったが? 中村氏とちょうど「逆転」した立場であったかと。

 「政経や現代国語は得意だったが(ただし、「現代国語」はなんとか漢字の読み書きができるという点が「得意」で、三木清や小林秀雄のエッセイを読んで答えろといった文章題や古文は苦手。漢文はまだ好きだった。作文などはまぁまぁ)、理数系課目はほぼオール分野が苦手で、数学も嫌いだった」(特に物理は「赤点」)。

でも、「大学に進学したら好きな勉強ができる」と教師や親にいわれ、受験勉強をしてきた。入試も私立文系(法学部)一本槍。国立文系など考慮もしない。それで、入試課目も英語・政経・国語(漢文・古文)だけ(しかし、法学部を受けるのに「政経」では受けさせず、「世界史」「日本史」「地理」なら受けさせるという私立大学には呆れた。さらに「英語」「国語」と「数学」で受験できる法学部もあった(要は社会科課目なしで法学部を受験できるのだ)。許せない大学だ? 文部省は、法学部や経済学部を受けるのに「政経」で受験できない大学への補助金は全面削除すべきだろう)。

5教科型の成績表では、高校時代はおおむね「総合」すると下位に低迷していたが、高校三年になって、理数系課目を取る必要がなくなった私立文系三教科型だと、なんとか上位に食い込んでいた(というか、国立5教科型文系クラスに優秀な生徒が「移動」し、「私立文系」は吹き溜まりで、僕のような生徒がたむろし、その中での話。政経で100点近い点を取り、あとは、国語と英語で60点とれば、3つあわせて220点。3教科の平均点は70点以上となり、まぁ、実力テストなら私立文系上位には入れた? いや、私立文系で学年一位になって名前が張り出されたことがあったかと。ネバーセイネバー!?)。

ともあれ、なんとか、ほぼ希望する大学の法学部にぎりぎりで現役入学した。当然、法学部なんだから、好きな政経関連の課目(憲法・法学・歴史)を徹底的に勉強し、ソビエト帝国主義(&レッドチャイナ)の、二つの脅威によって亡国寸前の国難の日本を救うための有為な人材になってみせる?(防衛大学校は人文系学部でも入試に数学などがあったからもちろん受験できず?)。そんな夢を描いて上京し入学式に臨んだ。そして、ガイダンスを経て履修届なるものを出そうとして唖然としてしまった。

高校二年の段階で「おさらば」したはずの物理(学)や生物(学)や、科学史や心理学の講義が「必修」「選択必修」であるではないか(前述したように、私立高校だったので三年の時は、私立文系の生徒は英国社しか選択しなくてよかった。あのときほど開放(解放)的なことはなかった。数学や理科の授業がないのだから。
とにもかくにも、履修届用紙を前にして、唖然呆然としてしまった。やる気をだそうと思っていた「法学」「憲法」の授業は週に一回あるかないか。「社会学」もあったが……(しかも、「法学」の先生は、そのあと、転向してまともになったとはいえ、左翼的な教授の「法学」? 二、三回授業を聴いたものの……)。

いやはや、いまごろの季節から(?)大学にあまり通わなくなりました。夏休み前にはちょっとした病気にもなり(?)完全に……。そして……。

「裏切られた思いが募り、大学へ行かなくなり、友人との付き合いも断ち切る。文系学部に入った僕には、理系の一般教養を大学で学ぶ意味が理解できなかった。常識がないとか純粋だったといってしまえばそれまでだが、自分の興味のあること以外は大学ではやりたくなかった。だから自分で好きな勉強をしようと考えた。 下宿(アパート)に引きこもり、政治やマスコミ関連の雑書を読みあさった…(パチンコも少々)…」

このあたりまでは中村氏と同じ歩み?

しかし、そのあとが……。

中村氏はこういう。
「知識がある程度身につくと、哲学書に走った。世の中や科学のことを考えたかったからだ。考えることは小さなころから好きだった。
 しかし、有名な哲学書でさえ、すでに自分なりに考えて結論を出したようなことしか書かれていない。これは目からうろこだった。自分でとことん考えることが大事なのだ。大学で一番ためになったのはこのときの経験だ。
 一人で考え抜いて成果を出す。研究者としての私のスタイルは、この大学1年のときに基礎ができたと思う。
 前例を参考にできないことこそ「自分の頭で考え抜くことが大切だ」と説く
 青色LEDの研究開発は実験しては考えるの繰り返しだった。最初は先駆者の成果を試したが、それ以降は参考にしようと思っても先行事例はほとんどない。いくら論文を読んでも資料を当たっても無駄だ。
 LEDの素材を作る過程で何度も失敗した。とにかく何度も何度も実験し、なぜそうなったのかをとことん考えて装置を改良し、また実験した。「20世紀中の実用化は不可能」といわれた青色LEDについて、自分なりの理論を築いていった。苦労はしたが、好きな研究だったからどんなことにも耐えられた。有名大学の出身でなくても、田舎者でも、がんばれば世界レベルの仕事ができるという証明ができたのではないかと思う。
 現代は先の予測は難しい。だからこそ、過去にとらわれず、懸命に考えて工夫することが大切だ。とことん自分の頭で考えれば、いずれ道は開けるはずだ


ううむ、カーネギーの『道は開ける』 (創元社)は、そうした失意のどん底に沈んでいた大学1年後半のころ一読し、深い感銘を受けたものだったが……。

まぁ、中村氏のように憲法や法律の「専門書」を読むほどのことはなく、古本屋や古本市に通って(まれに新刊書店にて)手にした雑本を、よくいって一日一冊単位で「雑読」する日々。ハイド系の本も入手読破していたから、さほどの「道は開かない」まま、人生の終盤を迎えるにいたった次第である?

ちなみに、中村氏には自叙伝として『好きなことだけやればいい』 (パジリコ)という本がある。昔読んだ記憶もあるのだが……。書名からもわかるように、多分、その本の中でも、記事に出ていたような持論を展開していたかと。

僕も「なるべく好きなことをやって生きていけばいい」という姿勢では大学入学以降過ごしてきたとの自負はあるが、どうしてこんなに差が出てしまったのだろうか?
やはり「好きなことだけやればいい」と、完全にそれを実践した中村氏に比べると、僕などは、現実に妥協したところもあったのだろう。

それでも、大学を人よりちょっと時間をかけて卒業し、青雲の志を相も変わらず持ち続け、大学を出て、さらなる有為の人物になろうと第一歩を踏み出したのに、年上の、いや同学年で、25歳までに結婚してくれなきゃいやだと騒ぐうるさい女にひっかかったのが運の尽きだったか……。

デートの時、あのころはいまのような「便秘の君」ではなく、「頻便の君」で、その間、待っている時も「本」を手放さないで読んでいたら、「寸暇を惜しんで勉強する古本虫さんって素敵♡♡♡」と言っていたのに、いまや「読みもしない古本、買ってくるな」と地下鉄メトロの十一秒ごとに繰り返される「進入進出時の風圧にご注意ください」というアナウンスと同様の頻度で怒鳴られる。そんな父親を見て育った子供たちは、「本好き」にはならなかった。

この前、土曜日の神田の古書会館で、小学生の子供を連れてブラブラしていた親子(父親と息子)連れがいた。そうそう、そんなこともあった。しかし……。

得るものがあれば失うものがあるのが世の常。ソクラテスだったか、悪妻を持てば哲学者になれると言ったのは。
愚妻を持てば何になれるのだろうか。万年課長か? ソルジェニーツインやガリレオではないが、「弾圧」を受けても、自由のために闘った科学者や文学者に我が身をなぞられるわけでもないが、「それでも地球は動く」し、「地球が動く限り、古本を買う」…。

それはさておき、2016・5・8毎日朝刊の気象庁による熊本地震の「予想」外れを扱った記事は大変参考になった。
「予断与えた『余震警戒』」「28時間後に本震」「検証熊本地震」「再考迫られる警告手法」「気象庁見通し示せず」

検証・熊本地震 .
/1(その1) 前代未聞の「前震」 余震経験則、通用せず
毎日新聞2016年5月8日 大阪朝刊
 「余震だから、そんなに揺れないだろう」。気象庁が「余震」への注意を呼びかけていた4月15日夜、熊本県益城(ましき)町の城本千秋さん(68)は、自宅前に止めた軽乗用車を降りて妻ぬい子さん(62)にそう話すと、家の中へ戻っていった。「あんたも息子の家に来んね」「行かん」。それが最後のやりとりだった。
 最大震度7の強い揺れが2度襲う異例の事態となった熊本地震。築80年を超す木造2階建ての自宅は、14日の地震では壁にひびが入る程度だったが、夫婦は用心のため車中で夜を明かした。翌15日夜、家の片付けに疲れたぬい子さんは近くの息子宅に身を寄せ、城本さんは自宅で寝た。今思えば、揺れの影響で玄関の鍵がかからないことを気にしていたようだった。
 16日未明、再び強い揺れが襲った。ぬい子さんが自宅に駆けつけると、1階はつぶれていた。救出に約4時間かかり、その場で「蘇生できません」と告げられた。「まさか2回目があげな大きいとは」。がれきの中から掘り出した夫の写真を手に悔やむ。

 気象庁は14日の地震を「本震」とみて、「震度6弱程度の余震が1週間ほど発生する恐れがある」と警戒を呼びかけた。これを「余震なら徐々に弱まる」と受け止めた人は少なくない。15日朝に4万人を超えた県内避難者は、昼には約7000人に減少。その後、再び大地震が襲った。避難先から自宅に戻り、16日の地震で亡くなった人はほかにもいた。2度目の震度7の地震が起きるまでに見つかった犠牲者は9人だったが、その後、犠牲者40人、安否不明者1人が加わった。
 2度目の強い揺れは、自治体にとっても不意打ちだった。食料配給の準備に追われていた益城町役場では敷地の地盤が崩れ、非常用電源車が横倒しに。停電して暗闇の庁舎内に「退避」の大声が飛び交った。夜が明け、県対策本部に被害情報が次々と入る中、「16日の地震は余震でなく本震、14日のは前震だった」という気象庁の見解を伝え聞いた県幹部は、思わずつぶやいた。「前震なんて言葉、聞いたことがない」
 28時間後の「本震」は、気象庁にとっても予想外だった。ある幹部はとっさに「ああ、失敗したな」と思った。より規模が大きいものが連発するという考えはなかったという。別の幹部は「M(マグニチュード)7クラスが起こってしまった」。16日未明の記者会見で、気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は「14日と全く違う。地震の規模が大きい」と驚きを隠さなかった。
 余震の見通しに関する説明も、これまでの地震にはない展開をたどった。気象庁は余震による被害を防ぐため1998年から余震発生確率を発表してきたが、16日の「本震」直後から取りやめている。震源域が阿蘇地方や大分県側に拡大し、「余震は時間とともに少なくなる」などの経験則に当てはめられなくなったためだ。当初は余震への警戒期間を1週間程度としていたが、21日の記者会見でも「少なくとも1週間程度」と繰り返した。今では期間すら示していない。 (以下略)。



まぁ、気象庁の「予想外れ」のために命を落した人もいたといえよう。僕が責任感を持つ気象庁関係者なら、「丸坊主」になるところだが……。記事では、このあと、気象庁のイマイチの対応を批判的に捉えている。我々一般国民が、気象庁に抱いていた「不信感」をある程度、踏まえた記事だった。
新聞社に期待したいのは、こういう記事だ。ほかの新聞でもすでに報じていたのかどうかは知らないが、毎日のこの記事は大変参考になった。

しかし、その毎日新聞…。5月9日付け朝刊では、「正恩氏現実路線に」「北朝鮮党大会報告」「非核化交渉模索か」ときた…。「現実路線」? 気象庁の熊本地震の事後予想外れみたいにならなければいいけど(イヤ、ネバーセイネバーか?)。まぁ、記事中の一部リベラル的な朝鮮専門家のコメントを反映しての「見出し」ではあるが……。
同日付け朝日の見出し「自衛の核強化」「非核化へ努力」「正恩氏、矛盾の国家戦略」「特別重大放送で独裁鮮明」のほうがベターですね。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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