古本虫がさまよう 再び、楊海英氏と梶谷懐氏の著作から中国への「いやな感じ」を考える
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再び、楊海英氏と梶谷懐氏の著作から中国への「いやな感じ」を考える
(2016・3・10・木曜日)




朝日新聞にこんな記事が出ていた(一部略)。

ケント・ギルバート氏著書で誤引用 ネット記事のみ訂正
塩原賢、竹内誠人
2016年3月7日22時19分
 2月に刊行されたタレントで米カリフォルニア州弁護士ケント・ギルバート氏の著書「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」(PHP研究所)で、動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿されていた情報を、誤って神戸大学大学院教授の見解として紹介していたことが分かった。同社は著書の誤記については公表しておらず、「読者から問い合わせがあったら対応する」と話している。
 著書の第4章「中国による『人民大虐殺史』を世界記憶遺産に推薦しよう」の中で「神戸大学の梶谷(かじたに)懐(かい)先生によると、PRC(中華人民共和国)はヨーロッパでも反日工作をかなり強めているようです」とした。
 この箇所を含む二十数ページ分は、PHP研究所の月刊誌「Voice」2015年12月号でも、ほぼ同内容が掲載されている。現代中国経済が専門の梶谷教授はネットでこの記述を見つけ、2月12日、こうした見解を表明したことはないと同社に抗議した。
 同社は梶谷教授に謝罪し、著書でも記載されていることを説明。ネットの記事アーカイブを改め、同誌のサイトで2月末まで「お詫(わ)びと訂正」を掲載した。ただ、そこでは著書でも誤っていることには触れず、初版の在庫約千部は処分し、配本済みの約1万9千部は回収しなかった。
 同社によると、ライターがギルバート氏に複数回インタビューし、原稿をまとめた。その過程でライターが、ギルバート氏が引用した「PRC」についての発言者「KAZUYA」を「カジヤ」と聞き間違えた。その後、ネットで検索し、梶谷教授の名前が中国関連の記事と一緒に出てきたことから、肩書も加えたという。
 同社は「確認作業はしているが、今回はたまたま見落とした」という。「書店へ配本した分はほぼ売り切った状態と判断し回収しなかった。2刷りからは訂正した」と説明。ギルバート氏は取材に対し「原稿は確認したが、誰の発言だったか忘れていた。指摘を受けてユーチューバーの発言だったと思い出した。単純なミス。謝罪は出版社がしている」と答えた。
 梶谷教授は取材に「私の論文を読んだことがある人なら、そうした発言をするはずがないことは分かるはず」と指摘。刊行前に事実確認の問い合わせはなかったと言い、「全く異なる考えが自分の考えとして広まってしまうと思うと恐ろしい」と話す。
(塩原賢、竹内誠人)



梶谷懐氏といえば、聞いたお名前と思い、本欄を検索すると、こんな本を紹介していた(以下再録)。再読して、ううむ、やはりこの人が、そういう発言をするとは…と思った。ケント・ギルバートさんの『やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人』 (PHP研究所)はあいにく一読していないが、この本を読んでいて、その該当箇所を目にしたら、「?」と思ったに違いない。


楊海英氏と梶谷懐氏の著作から中国への「いやな感じ」を考える
2011/11/11(金) 05:56:07

 梶谷懐氏の『「壁と卵」の現代中国論 リスク社会化する超大国とどう向き合うか』 (人文書院)を読んだ。著者は1970年生まれの大学准教授(現代中国経済論)。
 これは中国関係書物紹介集といった感じの本である。 「壁と卵」は村上春樹氏がイスラエルでエルサレム賞を受賞した時のスピーチで使った言葉。

 僕などは、壁といえば、「ベルリンの壁」を思い出す。国家や軍隊などによる「自由」を遮断する「力」をイメージする。
「卵」というと、そんな「壁」にぶつけてもすぐに割れてしまい、「壁」にたいした損傷も与えられない無力に近いイメージを想起もする。
 もっともイスラエルの行使する軍事力には「正当防衛」的な面もあるとは思う。テロとの戦いの側面もある。そんなことをいうと中共のウイグルやチベットでの軍事力や警察力の行使も容認されることになりかねないが……。抵抗する側の「暴力」がどの程度のレベルなのか、暴力以前の抵抗するための民主的ルールがどれだけ保障されているのか、いないのか、抵抗する側の領土・主権がどの程度正当性のあるものなのか、抵抗する側に、他国の自由なマスコミがどの程度接触し取材することができるのか、抵抗する側がユネスコ程度に加盟するぐらいの「自由」があるのか、その程度の「自由」すらないのか…などの違いがあれば、その違いに応じて、正当化される軍事力行使もありうるのかもしれない。

 中国でも「中共(中国共産党)の壁」に対して、民主的ルールによる抵抗が不可能に近いチベットやウイグルなどで、「卵」の反撃が起こってもすぐに鎮圧されてしまいがちである。
 
 そういう中共に対する「壁」と「卵」に関する解釈は、僕自身のものでもあるが、それはさておき、中国や中国と日本などの関連するさまざまな出来事への雑感が梶谷氏の本では綴られている。それに関与するさまざまな書物も紹介されており、ブックガイドとして一読した次第。

 著者の中国観は中庸なものであって、特に大きな違和感や反感を抱くことはないのだが(そういう見方も十分ありえるだろうと……)、首を傾げるところもあった。
日本国内に嫌中的な感情が目立つようになってきたとして、著者の母親も安保反対派で(日本の)社民的感性の持ち主だったものの、「中国の人たちは嫌いではないが」と断りをいれつつも、「(最近の中国政府の姿勢を見るたびに)腹が立って仕方がない」とこぼすようになってきたという。
 その程度ならともかくも、「在日特権を許さない有志の会」などの排外的なレイシズムには著者は批判的で、そうした中国・韓国に対する批判活動に迎合する産経新聞に抗議のメールを送ったりもしたそうな。
在日中国人は「これ以上増やさず、排除することが日本の国家基本政策」であるべきだと産経紙上で書評の形で論じた右派論客の記事に反発しての抗議だったようだ。

 その団体や団体に関する記事の記憶がないのではっきりしたことはいえないが、例えば、北京五輪の時に、国内聖火リレーで長野の善光寺が大会への協力を「拒絶」をしたりして注目を浴びた時、中国大使館に「動員」された在日中国人が大挙して長野に押し寄せ、フリーチベットを応援する在日チベット人や心ある日本人に対して、威圧的な対応を取り、日本の警察も半ば見て見ぬフリをしていた「事実」がある以上、在日中国人を「これ以上増やさず」、排除するかどうかは別にして、ある程度制限するというか警戒せよと主張するのはオピニオンとしてなら許されるものではないか。

 楊海英氏の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録上下』 (岩波書店)などについては、梶谷氏は、あっさりと一言「文革期の少数民族が面した受難はこれまでタブーとされてきたが」この本によって「その実態が明らかにされつつある」と紹介しているだけだ。
 だが、この本では、比較対照の上でだが、日本統治時代の方がまだマシというか、はるかにマシというか、是認もされていたことを論証もしている本だという点にも言及すべきだっただろう。

 その続編でもある『続 墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』 (岩波書店)でも、楊海英氏は中共がいかに残酷非道であったかを検証している。

「中国や韓国は過去の日本に対して否定的です。しかし、内モンゴルはそうではありません」「歴史と言うのは完全に善、完全に悪というのは決してありません。多面的に見なければならない時代です。それなのに日本は中国に対して今でも低姿勢な態度を続けています。低姿勢なだけでは歴史問題は解決できません」「文化大革命の時にひどいことを少数民族に対して行ったのに、中国政府が謝罪も補償もしていない」「日本に対しては『歴史を忘れるな』とことあるごとに(中国は)言います。しかし国内に対しては、中国政府にとって都合の悪い歴史を忘れるように言う。歴史を都合よく利用しているのです。私は日中間の歴史問題が今日までずっと存在しているのは中国側の責任だと思います」と指摘している。

 まったくその通りだと思う。中共が、半世紀以上も昔の「対日歴史カード」をふりかざし、南京30万、2000万殺された云々と針小棒大に騒ぐのも、自分たちが戦後の一時期同胞を何千万人も殺戮し、異民族支配を強行し、その異民族をリンチ、レイプで痛めつけた近過去(いや現在進行形!)を追及されないための策謀というしかない。
 我々は対中歴史カードをむしろ行使して、異民族支配体制国家・ソ連解体と同様、中華帝国の解体を促すための努力を言論を中心にして行なうべきであろう。それが軍拡中共の野望を打破する唯一の救いの道ともいえる。
 その意味で、楊海英氏の本が岩波書店から三冊も刊行され、司馬賞も受賞しているのは大変喜ばしいことというしかない。北朝鮮の悲惨な現実をいち早く告発した関貴星氏の『楽園の夢破れて』が岩波書店ではなく全貌社から出ていたがために、萩原遼氏をはじめ多くの人が「地上の地獄」の実態に気づくのが後れてしまったという苦い過去があるが……。

 それはさておき、在チベット中国人、在(内)モンゴル中国人、在ウイグル中国人を「これ以上増やさず」やっていくことは、これら3国の将来の独立のためにも重要である。排外的感情云々の次元ではなく、切実な「独立独歩」の観点からも重要であろう。バルト三国は独立したものの、長期間に及ぶソ連統治のために、民族構成が若干ロシア人によっていびつなものになっていたのはマイナスともいえたのだから。
 従って、中共当局の意のママに動かされる恐れのある「在日中国人」の増加には警戒せよと説くようなオピニオンならば、梶谷氏が、抗議するほどのことではないと思う。南京で日本軍が無辜の中国人を30万人殺したという学説を唱える人と比べても……。

 サッカーの試合で「シャビー(日本語でいうとオマン×?)日本」と蔑み、公使の車にモノを投げつけたり破壊したり、かつ、それをちゃんと取締もできない中国警察の民度の低さは、偏った自尊史観、中国共産党史観に基づく歴史教育などの「成果」でもあろう。
 それ以来、中国が嫌いになった日本人も多々いるだろうと著者は認識した上で、なぜ「いやな感じ」がしたのかといえば、それは「中国が日本に危害を与える脅威であることを示すものだから」と右派メディアが説明するのは「明らかに的外れである」からだというが、そうだろうか? 
 そのような具体的な脅威や危害の可能性をまったく信じない著者ですら、やはりその光景には「いやな感じ」を抱いたからだという。
 そうした「集団になって異質なものを排除する」姿が「合わせ鏡」のようになって日本にとっても「他人事」ではないから、いやな感じをもつのではないかとも指摘する。

「外国人の排斥を訴えて差別的かつ暴力的な言動を行うことで知られる『在特会』などの排外主義的な集団のグロテスクな姿は、その他人事ではない『いやな感じ』が、まさに最悪の形で日本の社会においても現実になりつつあることを示しているように思われる」と。
 
 でも、この考え・指摘は少しおかしい。在特会なるものがどういう原理でどういう行動をしているかはよく知らないが、「いやな感じ」というものは僕の場合そういうものではない。

 一般論として言うが、何処の国にもバカはいる。殺人者はいる。痴漢はいる。売春婦はいる。売春婦を買う奴、ことさら差別語を使うバカはいる、禁煙の表示があるのにタバコを吸うアホもいる。人が食事をしている傍で、タバコを吸う輩もいる。民主的手段で抵抗ができるのに、爆弾をセットしてテロをするのもいる……。一時、中国にはハエがいない、売春婦はいない、医者にかかれない貧乏人はいない……などと言われたことがあったが、それはむろん嘘である。
 同様に、デモをする者の中には、差別主義者や暴力を振るう者やらいろいろといるだろう。ソ連でも中国でもアメリカでも日本でも「レーガンはバカだ」と唱える自由はある(中国には「胡錦トウはばかだ」と唱える自由はないかもしれないが?)。

 大事なことはサッカーの時にせよ、北京上海などの暴力反日デモにしても、日本国内の右翼・左翼・中庸の市民団体のデモにせよ、それが、ある一線を越えた時に、警察などがちゃんと取り締まったりするかどうかだろう。 
 日本の市民団体がアメリカ大使館や中国大使館前で暴力をふるったり投石したら、逮捕される。ところが、北京などのデモの時は、当初は明らかに当局の誘導デモであったためか、警察はそうした「暴力」行為を見て見ぬフリをして自由に「遊泳」させていた。
 そういう光景を見て「いやな感じ」を僕(や多くの日本人)は持ったのである。
 デモをする人たちがちょっと暴力的な行為をしたりした程度で民度が低いんだな、この国はと決めつけるのではなく、政治的底意でその取締まりを手加減するような中国は、法治国家ではないんだ、当局のさじ加減で犯罪も犯罪でなくすことができる後進国なんだと実感したから「いやな感じ」を持つようになったのだ。

 同じことを日本の警察がしたら、これまた日本の公権力を含めて「民度」が落ちたと感じて、それこそ「合わせ鏡」的に「いやな感じ」を持つだろうが、幸い、そこまでは通常は至っていない。

 もちろん暴力的なことを中国大使館や米国大使館にすること自体「いやな感じ」はするが、それを放任し取り締まらないような警察を見たら、もっと「いやな感じ」をするだろう。だが、そもそも、日本ではそういう暴力行為を働くのは、中国よりは遙かに少ないのは否定できない事実ではないか。民主主義・法治国家だからでもあろうが。

 その観点からすれば、長野でフリーチベットを叫ぶ人々をむしろ排除し、それに対して中国国旗を翻して威圧する在日中国人の「数」を恐れてか、適切に取り締まらなかった当時の日本警察の態度には若干「いやな感じ」を抱くこともあるが、それは例外中の例外でしかない。

 
「まさに最悪の形で日本の社会においても現実になりつつある」のは、産経のそうした記事ではなく、在日中国人の横暴なふるまいをきちんと規制しない日本警察を見た時にこそ浮かぶ心証ではないのか。
 そういう著者の認識には若干の疑問を感じたが、それ以外は概ね中庸な感じの本で、ある程度参考にはなる内容だった。



4~5年前のブログコラムであるが、ともあれ、刊行されたばかりの楊海英氏編の『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(8) 反右派闘争から文化大革命へ』 (風響社)をぱらぱらとめくる。すでに7巻が刊行されている。毎回分厚い冊子で「万単位」のお値段。今回は本体価格2万円。こういう本は図書館が常備すべき本といえる。だが都内の図書館で所蔵しているところはないようだ。
梶谷氏も『日本と中国、「脱近代」の誘惑 アジア的なものを再考する』 (太田出版)という新刊が昨年出ていたようだ。機会あれば一読しておきたい。異論を読むのも大事なことだから。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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