古本虫がさまよう 「英語化」は「愚民化」か「多文化」か?「日本語」が亡びれば、「日本に恋する外国人作家」は増えない
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「英語化」は「愚民化」か「多文化」か?「日本語」が亡びれば、「日本に恋する外国人作家」は増えない
(2015・10・15・木曜日)





(前日より続き)1971年生まれの施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (新潮新書)を読んだ。

グローバル資本を利する搾取のための言語=英語。気鋭の政治学者が「英語化」政策の虚妄を撃つ!英語化を進めた大学に巨額の補助金を与えるスーパーグローバル大学創成支援から、果ては英語公用語特区の提案まで。日本社会を英語化する政策の暴走が始まった。英語化推進派のお題目は国際競争力の向上。しかし、英語化を推進すれば、日本経済は急速に力をなくすだろう。多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が発展していくという現代政治学最前線の分析から逆行することになるからだ。国際政治の力学から見ても、英語による文化支配のさらなる強化は、世界の不平等を拡大するだけだ。グローバル・エリートと国民一般との分断。「愚民化」を強いられた日本国民は、グローバル資本に仕える奴隷となるのか。英語化の罠を暴き、公正な世界秩序づくりへの処方箋を描く、衝撃作!



よく知らなかったが、著者によると、ヨーロッパの知性を語る言葉は「ラテン語」「ギリシャ語」であったそうな。やがて『聖書』などを英語やドイツ語やフランス語などの「土着語」「民族語」「現地語」に翻訳していったそうな。

そういう過去を今日の日本にあてはめながら著者は考えていく。要は「ラテン語=英語」として。ラテン語(英語)をマスターできる知識層と、土着語(日本語)しか話せない一般庶民。その間にどんな格差が生まれるか。それがひいては国力の低下にどうつながるのか……。外国語・他国語の強制によって、創造力は低下する一方だとも。

日本人が、英語ができないとかいろいろいわれるが、おそらく、日本人が中国語や韓国語を学べば、わりとスムースに上達し定着するのではないか。文法やら漢字などで共通する土壌があるからだ。
欧米社会が、それぞれのアルファベットで共通する言語をマスターするのと同じだ。スペイン人がイタリア語を学ぶのは(その逆も)、日本人が韓国語を学ぶよりも容易といえるのかもしれない。モンゴル出身の相撲力士があれだけ、見た目も話しぶりも「日本人」と何ら変わらないのは、日本語とモンゴル語の類似性もあるのかもしれない?

逆に欧米人が日本語や中国語をマスターするのには、欧米諸国内部の相互の言語をマスターするよりは時間がかかろう(といっても、欧米出身の相撲力士も流暢な日本語を喋る。一定期間の集団生活が語学獲得の上で有利なのかも。だが、北朝鮮に拉致された日本人が、否応なく朝鮮語をマスターするというのは、語学学習としては、うらやましくもなんともないパターンであろう。蓮池薫さんが、中央大学法学部生だった時に恋人と共に拉致され、いまや地元の大学で朝鮮語を教えたり、新潮社から朝鮮語の本の翻訳をしているのは、不幸中の幸い、禍福は糾える縄のごとしと形容してもいいものかどうか……。こればかりは、躊躇うしかない? 生きているかぎりは幸せともいえようが)。

インドやフィリッピンの人々の中で、英語がしゃべれる人が多いのは(TOEFLテスト受験者の点数が高いのも?)、植民地統治故の話。スペイン語がフィリッピンや中南米の諸国で使用する国が多いのも、そのせい。

禍福はあざなえる縄の如しというわけで(?)、日本人はそういう植民地統治の体験をほとんどしていないからということもあり英語下手であるが、それは誇りに思っていいのかもしれない(マッカーサーなどの数年程度の統治で、これだけ「洗脳」史観が強制されていることを思えば…? 何十年、何百年も統治されたら民衆とて英語をかなりマスターできる?)。
その点、日本が外国に「植民地」にされたのは、敗戦直後の数年間。パンパンガールたちは、必要に迫られて英語に上達したものもいただろうが、それはあまり誇りにはならない? ともあれ、「必要は発明の母」?

そうした日本はダメ、日本より外国に青い芝ありという「洗脳」史観の影響もあってか、このままではグローバルな世界で遅れを取る、シンガポールを見習え…なんていうことで、小学生からの英語教育導入、中高大学でも、授業は英語で…なんて掛け声が叫ばれているが、著者は、そうした主張にことごとく反論を展開している。

この前、テレビを見ていたら、某私立進学校が、体育の授業などは「英語」オンリーでやっていた。この程度ならまだいいのかも? また新潟の国際教養大学は、先生も生徒も「外国語(原則英語)」授業とか。大学レベルなら、そういう特殊な大学があってもいいのかも? なんといっても、中嶋嶺雄さんが学長だったから。中嶋嶺雄氏の『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』 (祥伝社黄金文庫)は紹介ずみ。

中国の研究家としても著名な中嶋氏だが、秋田の国際教養大学(公立大学法人)の学長でもある(故人)。その学長としての立場から、自らの大学の良さを綴った本。授業は英語が原則。海外留学も一年は体験させる。図書館は休みなし24時間オープン。就職率は100%。しかも一流企業多しと。大学受験の難易度も東大、京大に継いで阪大並みとか。なぜ?と。でも就職率100%といっても、4年で卒業するのは入学者の半数程度とのこと。その点でも海外の一流大学並みの厳しい進学基準があるようだ。また中嶋氏は、英語の早期学習導入に賛成の立場。


日常生活にさほど英語が必要でない以上、普通の日本人は、そんなにはマスターはしようという気にもならないのかもしれない。翻訳書もたくさんあるし……。原語で読むのは、特殊な研究者?。

帯にも推薦の名を連ねている藤原正彦氏の国語論である『祖国とは国語』 (新潮文庫)も以前、面白く一読したものだ。成毛眞氏の『日本人の9割に英語はいらない』 (祥伝社)も、それなりに共感を持って一読したものだった。

そもそも英語ができる人に、英語不要論をいわれると(?)ちょっとヘンな気もするが…。僕のように英語がほとんどできない人間にすれば、英会話などをマスターするために必要な時間とお金は、好きな日本語の本の読書(や特定嗜好分野の映画鑑賞)に回したほうがいいということになろうか‥‥。

とはいえ‥‥。これまたなかなか安保法制のように、より正しいのはどっちかということが、単純には決められない?
いや、そんなことはない? まぁ、英文法も日本語の口語・文語文法もあまり好きではない科目だったから‥‥。

とはいえ、先の中嶋氏といい、泉幸男氏の『英語学習の極意』 (文春新書)のような語学の達人であると同時に、ちゃんと健全な愛国心もある人もいるし。バカなことを言っている外国人相手に向こうの「原語」「言語」で反論する人材を一定数育成することも必要だろうし。

また未読だが、ベンガル系インド人としてロンドンで生まれ、三歳の時にアメリカに移住し育ったジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』 (新潮社)という本が出ている。


「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。
子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。



家族環境故にバイリンガルなのに、さらにもう一つの言語を学び、第三番目に覚えた言葉で、そういう「創造的」なことを達成する人もいる。そのあたりのことに、松家仁之氏も注目して、「イタリアに恋する女性作家」(毎日新聞2015年10月6日夕刊)として紹介していた。
なるほど‥‥。須賀敦子氏も、フランスに留学したものの肌になじまず、途中で旅したイタリアにつよく惹かれ、住みつくことになったとのこと。

「英語を置き去りに、第三の言語で小説を書き始める小説家は、ラヒリをもって嚆矢とし、つづく作家が出てくる、としたらどうだろう。そこには文学のあらたな光が射し込む可能性があるだろうか」

日本にもドナルド・キーンのような人がやってきて、住みつき、作品を発表している。松家氏も施氏も、水村美苗氏の『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』 (ちくま文庫)に言及もしているが、日本語が亡びると、キーンのような人につづく「外国人」もいなくなる。「日本に恋する外国人作家」「日本に移住する外国人作家」をもっと生みだすことも肝要では。

やはり、我々日本人は先ずは「日本語」を愛して使って広げていく努力も忘れてはいけないのではないか。その上で、外国語は英語も含めて、もちろん排斥・排撃することなく、ある程度受容して、それぞれのレベルで使いこなせばいいのではないか。

まぁ、従来通り、中学レベルから英語学習を始めていけば十分では?

ともあれ、英語やそれ以上の複数の言語がしゃべれる、書けることが唯一最大の人間評価のポイントにならないように工夫すればいいのかも。

しかし、世の中には、『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』 (小倉博行氏・白水社)なんて本もある。これまた未読未購入だか、タイトルからすると、著者はこの難解な外国語をマスターしているかのようである。

とにもかくにも、英語教育システムは、中学からで十分ではないのか。小学校からやりたい人は、家庭教師でもつければいいのだ。そうしたら、金持ちの子供だけが外国語をマスターするようになるなんて叫ぶ単細胞な人が出てくるかもしれない。

でも恥ずかしながら告白するけど、、小学校の時、そうやって英語塾に通っていたなれのはてが、僕だ? 所詮は、生まれつき? 金かければ、みんな誰でも英語ができるようになるとか、数学ができるようになるといったバカな神話は捨てること。

何十もの教科の中から、自然と自分の好きなもの、得意なものが分かり、それをなるべく活かして、自分の人生の活路を見つけていくのが教育の意義。

勉強的科目ができなくても、体育は得意。マットは苦手でも走るのだけは得意。そういう細分化された分野でもいいから、何か自分の得意なもの、好きなものを見つけていけばいいのに‥‥。

一律、画一的な視点からの科目のみを重視したり、それができないと不要なコンプレックスを抱いたり、それはかわいそうだからなんとかしなくちゃということで、百メートル競争を廃止したりバカな悪平等的教育をやってきた。英語教育を小学校から一律にやるのは、やはり愚の骨頂という気がする。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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