古本虫がさまよう 遺体も蔵書もみんな燃やしてしまえば、極楽往生か?
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遺体も蔵書もみんな燃やしてしまえば、極楽往生か?
(2015・6・16・火曜日)







新谷尚紀氏の『葬式は誰がするのか 葬儀の変遷史』 (吉川弘文館)を読了した後に、引き続き関連書として、井上理律子氏の『葬送の仕事師たち』 (新潮社)を読み終えた。

葬儀の専門学校で学ぶ若者への取材がまず出てくる。10代で、祖父母などの葬式を体験し、そこで見た葬儀会社の人たちの甲斐甲斐しい対応などを見て、そういう道を志したりしたとのこと。

そのためか、まじめに授業に出て、学ぶ。

また、事故や自殺などで通常よりも破損した死体を復元するような技術をもった仕事師(エンバーマー)も増えてきているとのこと。エンバーミングという、この技術は、普通の遺体ともなると、棺桶ではなく椅子に坐った形で参列者と向き合うことも可能にしてくれるという。アメリカではそんな葬儀もあるとのこと。

大学に葬祭学科があり、そこに留学してエンバーミングを勉強した人も紹介されている。日本の大学も、こういう「職業専門大学」を作っていく必要があるのかもしれない。高校や専門学校レベルでは対応できない医学的知識もこういう仕事には必要になってくるようであるから。

まぁ、「選択の自由」ということで、そういう技術を遺体に施すことによって、遺族が「満足」を得られるのを悪くいう必要はないのかもしれないが……。所詮、死んだ人にとっては何の関係もない話? 遺族の「自己満足」?
棺桶に横たわる「遺体」の顔を拝顔するだけで十分だと思うけど。

葬式といえば、日本では、いまのところ、棺桶に入れられた亡骸の「顔」を見ることはできる程度。

しかし、アメリカでは葬儀に出かけたら、死んだはずの故人が、背もたれのある椅子に坐っていて、しかも、服を着て、手を差しだしたりしていたという。参列者は、故人と握手をしていくという……。ううむ、ちょっと気色悪くも感じるが、坊さんの読経をせずに(当然、御布施も用意せずに、戒名もつけずに)、そうしたエンバーミングのほうにお金を出して、グッバイセレモニーをするほうが洒落ているかもしれない。

日本でも、車好きだった主人のことを思い、エンバーミングして、服を着せた夫の亡骸を脇に乗せて、妻が死後ドライブをした例もあったという。ううむ……。

そうか、僕も死んだらエンバーミングしてもらい、車椅子に坐らせ、神保町界隈の古本屋や古書会館に出かけたりするといいのかも?

「あなたの好きだったところよ。なにか一冊買って、一緒に火葬場で燃やしてもらう?」
「いや、その古本屋じゃなくて、その先のアダルトショップに入ってくれよ。そこもよく行ったんだ。大橋未歩、いや大橋未久の引退記念三本立てを買って、入れてくれよ。DVDを燃やすのが無理なら、橋本マナミの写真集でもいいからさ」
「あら、そうなの、橋本マナミさんだけじゃなくて、大橋未久の写真集もいかが」


と霊界通信をしたりして、妻が優しくやってくれるだろうか。
やってくれるわけがない? ネバーセイネバー? いやこればっかりは絶対にあり得ない。断言する!?

そもそも、火葬場に行ったら、「主人の古本も全部ここで一緒に燃やしてくれませんか?」と交渉しかねない。

この本でも、火葬場で働く人たちの仕事ぶりやその火葬の技術的問題にも踏み込んでレポートされていて、興味深いものがあった。
最新型の工場のような火葬場に去年出かけたことがあるが、そういうところでも、火加減やらいろんな点で、人間的な対応がされているようだ。スイッチポンだけで、あとは自動火葬というわけでもない。見た目というか、骨格が残るような焼き方はそこそこの技術も必要だという。知らなかった。

葬式のやりかたや費用の問題にも触れられている。
去年、身内も含めて、お骨拾いをする葬式が三度あり、いささか精神的に疲れた。他人のお通夜などに出かけるだけでもそこそこ疲れるだろうが……。葬儀をやる身になると大変。お返しやらなんやら考え出すと……。そんなことをしてまでGNPの拡大に貢献する必要もあるまい。この本では十万円足らずで葬儀をすませた例も紹介されていたが、それでいいと思う。

「文藝春秋」(2015年7月号)で、共に80歳を越えている石原慎太郎氏と佐々淳行氏の対談「信長の死生観には共感するね――住まい、健康から葬式まで――出会って半世紀の二人が、老人ホームで語り合う」が掲載されていたので読んだということは昨日も書いた。
石原氏は「葬式不要、戒名不要、我が骨は必ず海に散らせ」というモットーとのこと。
遺骨も、遺族に遺す必要はなしというわけか。それも一理ある。
去る者日々に疎し、でいいではないか。
死者は何もできないし、遺族とて、知人とて、友人とて、いずれ死ぬわけで、その時点で「記憶」は消滅する。とはいえ……

石原慎太郎氏はヨットマンだから、遺骨は海に撒けばというのだろうが…。僕は山も海もさほど出かけていないし、古本屋周辺に遺骨を撒くわけにもいかない……。さてどうするか?

ともあれ、「自然」がいいなんてノーテンキなことを言う人がいるけど、本書にも描かれているように「死体」を「自然」のままにしていたら、あっという間に腐乱し蛆虫が湧いてくる。顔も見られない。そこをさまざまな薬液などを使って人工的な処理をして腐乱や悪臭を防ぎ別れの儀式にもっていく……。

最近、花屋に行くと、造花ではなく、生花をナントカナントカして数年(?)もつようにしている花が数千円で売られている。病気のお見舞い用にいい。枯れないから。そんな技術が遺体に使われているのかもしれない(想像)。

それにつけても、最近、こういう本を読むことが多くなった。人生、終幕に向けての準備?  とはいえ、ある日、突然、予期予防することなく、死はしばしば訪れるもの。北海道の砂川の交通事故死などは本当に痛ましい。一家5人を襲った悲劇を見るにつけ(一人は重体とのことだが)、青信号だったとか言い逃れとしか言えないような抵抗をしている加害者を許すことはできまい(青信号だったとしても、飲酒運転、スピード違反、ひき逃げなどの罪は消えまいが)。


ところで、笹川陽平氏のブログによると、中国では「葬式でストリップ」
をやったりすることもあるそうな。以下、その引用要約。

近年、中国では富裕層の激増からか、葬式が豪華というか超派手になってきた。

大砲を撃ったり楽団が入ったりで、見知らぬ人も参加する。当事者にとって参列者数はメンツに関わる大問題らしく、大盤振る舞いを競うようになってきた。一時、政府から自粛指導がありかなり沈静化されたと思っていたが、中国は広い。政府の威令が届かない地方もあるようだ。

5月6日付けの朝日新聞によると、中国文化省は、農村部などで見られる葬儀でのストリップショーは社会に悪影響を与えるとして、警察と連携して厳しく取り締まる方針と報じた。社会的不満がマグマのように鬱積する現代中国において、葬儀とストリップはどのような関係にあるのだろうか。単に人集めのためなのか、あるいは昔からあった習慣なのか、筆者には理解できない。

中国では、高度経済成長の中で出現した富裕層は、豪邸、高級車、ブランド品だけでは満足せず、冠婚葬祭も大きく変化して結婚式(紅事)、葬儀(白事)が派手になり、大金を惜しみなく費やすようになったらしい。

例えば、葬儀に爆竹を鳴らし、楽隊がファンファーレを演奏。「冥界銀行(あの世の銀行)発行の額面一億元(13億円)の札束を焼いたり、馬に乗ってあの世に旅立つ故人に、かつては紙馬を焼いていたが、現代は豪華な紙製高級車を焼いたり、会場の外で大砲を発射することも珍しくなく、大砲の口径、火力、発射数が自慢になるらしい。

年々派手になる葬儀の演出は、民間の葬儀ビジネスが出現して以来という。中国の格差社会は葬儀も二極化してきたらしい。

それに比べ日本では、1995年以前は核家族化が顕著になってきたのと同時に、死亡場所は自宅から病院に移り、葬儀への参列者も多く、葬儀は一般的には派手で、葬儀費用は葬儀屋と寺の言い値の価格で、今と比べると高かった。中には通夜、密葬、本葬、お別れ会と念の入った葬儀もあった。

ところが2000年以降、不況、高齢化による参列者の減少、あるいは葬儀への意味を感じない消費者も増大。家族葬や焼き場での直葬も珍しくない時代に入った。メディアによる高額な葬儀への批判から異業種からの参入もあり、低価格競争の時代になったらしい。

筆者が長年努力してきた献体運動も、最近ではその必要性のないほど献体希望者が増加している。葬儀の必要もなく、解剖の後はねんごろに供養を受けて骨壺に納められて仏(ホトケ)で帰ってくるので、「経済的だ」とのうがった見方もある。

しかし、これは大都市での話であって地方ではまだ旧来の葬儀のあり方ではないだろうか。



「日・中葬儀事情」その2


中国の伝統的モラルは、「孝悌」(こうてい:父母に孝行し、兄によく従うこと)を重んじることである。

最近は「厚養薄葬」という言葉が流行りである。死んだ後の豪華なお葬式、墓、供養よりも、生きているうちに親に豊かな生活を享受させる「養」こそ「孝悌」の真髄だというのである。

このような考え方は唐突に出てきたものではなく、昨今の中国の役人や富豪たちが、亡くなった親のために執り行う豪華な葬式に対する批判として現れた一面もあるようだ。

古代の中国人は死後の埋葬を重視していた。秦の始皇帝の兵馬俑に囲まれた山のような墓とまでは行かなくとも、仁徳天皇陵に遜色しない歴代帝王の豪華な陵墓は随所にある。この現象は漢・魏の時代が最も盛んで、王族だけではなく、豪族、富商たちも競い合って葬式と陵墓作りに財産を投入した。

ところが、これが国の財政収入に影を落とすほどの大問題になった。東漢の皇帝たちは相次いで「薄葬」を提唱し、自らも実践した。魏の始祖曹操に至っては、「薄葬令」(墓作りの簡素化令)まで出して、死んだ人のために無駄金を使うことを禁じた。近年、河南省の安陽で発掘され、曹操の墓だと確定されたお墓も、帝王の身分に見合わぬ質素なものだった。

しかし、古代帝王たちの美徳は今日の人たちに必ずしもうまく継承されていないようだ。

経済的に豊かになると、金持ちたちはどうしても亡くなった親のために豪華な墓を作りたくなる。しかし、中国の土地は国有であり、広大な陵墓作りは不可能。そこで、かわりに豪華な葬式を行うことになる。特に役人の場合は「権力」と「人間関係」を駆使し、生前親に十分孝行を尽くせなかった償いとして埋葬前の豪華な葬式を行うようになった。

中華人民共和国建国後で、自分が死んだ後は墓も作らず、遺灰を祖国の大地にまいてほしいという遺言を残した人物は周恩来が最初だと記憶している。彼は「墓さえも作らなかった偉人」として国民の評価も高かった。

その真似をしようとしてか、地位の高い人物が祖国の名山、大川、海に、あるいは自分の生まれ故郷の大地と小川に散骨せよと格好いい遺言を残す人が増えた。殆どは生前に一定の地位を得た官僚たちである。

ところで、これが実は豪華なお葬式よりもずっと大変な一大行事なのである。

東北地方出身で、北京の中央省庁の局長クラスの官僚が亡くなった。遺言は「生まれた県の川に遺灰をまいてほしい」というものだった。しかし、いざ散骨日になると、これが大変な騒ぎとなる。

遺灰を入れた骨壷を抱えた未亡人とその子女たちを省庁が調達した黒塗りの専用車で空港まで送る。遺族のほかに、生前の勤務先を代表して指導部の者も飛行機に同乗し、故人を故郷の省まで送る。

飛行機が故郷の空港に着くと、そこには省の指導者、出身県の指導者が待ち受けている。空港から出身県までの長い距離を先導車つきの車列が疾走。出身県の地元では盛大な行事が行われる。沿路には物珍しげに見物する農民の人だかりができる。県長はじめ、県の人事、交通、衛生、放送局やテレビの取材班、その上、教育(故郷の子弟たちにすれば、模範になる人物が帰郷した)部門の人たちまで揃う。

選ばれた散骨地に着く。これだけの郷党の前だから余計威勢を張り、一気にではなく、いかにも厳かに川に散布する。幸い、故人を偲ぶ会は亡くなった直後に北京で開催されたので、散骨式の前後に故郷で開催する労は免れたが、ご遺族や中央からの一行の招宴は必ずつき物である。故人の生家、勉強した学校、ついでに地方の名勝も見学しながら、故人を偲ぶことも流儀になっている。そのご暫く滞在し、一行を地方の中心都市に送り、そこからまた飛行場まで送るのが礼儀なのである。

いやはや大変なことである。



昨日のブログのコメント欄に、「ブログの締めの言葉、として「明日は明日の風が吹く」では冗長でしょうか」との指摘をいただいた。どちらも似たような意味合いかと。『あとは野となれ山となれ』は、やはり曽野綾子氏の『あとは野となれ』 (朝日文庫)から。

調べると、マーガレット・ミッチェルの『明日は明日の風が吹く 女はすべてスカーレット』 (PHP研究所)なんて本があるそうな。未読。

一方、曽野綾子氏の『あとは野となれ』 (朝日文庫)も単行本で昔読んだが、彼女のモットーの一つだったかと。

ご主人の三浦朱門氏は色紙を頼まれると「妻をめとらば曽野綾子」と書いたとか(『妻をめとらば』旺文社文庫、という本もあった)。曽野さんは色紙には「あとは野となれ山となれ」と書いていたのではなかったか。
人為的理由かどうか知らないが、地球温暖化危険論にしても「あとは野となれ山となれ」でもいいではないか、なるようになる…と思わないでもないが……。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!

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