古本虫がさまよう ケビン・ドークを駐日大使に! それが無理ならせめて駐日公使に!その爪の垢を煎じて呑ませたい相手は田中均チャン!
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ケビン・ドークを駐日大使に! それが無理ならせめて駐日公使に!その爪の垢を煎じて呑ませたい相手は田中均チャン!


週刊文春(2013・6・20号)にジョージタウン大学教授、ケビン・ドークさんのメッセージが掲載されている(聞き手・古森義久氏)。

「安倍総理に「靖国参拝」「憲法改正」を直言する米大学教授」と題している。…。

アメリカのアーリントン墓地にも南北戦争で奴隷制擁護で戦った南軍側の将軍も埋葬されているけれども、そこにオバマ大統領や外国元首が慰霊のために訪れても、奴隷制度を肯定することにならないように、靖国参拝をしたからいって、何の問題もない、それどころか、「もし首相が靖国参拝をしないままであれば、日本社会は世俗化の一途をたどってしまう」「政治や社会から道義的な要素が消え、無責任が野放しになること。つまり国民が背骨を喪失した状態」「国家のために命を落とした人々を弔う行為は、成熟した民主主義国家にとって非常に重要な問題です」…と指摘している。もっともな正論。
彼(ケヴィン・ドークと表記することもあり)の著作としては『日本浪漫派とナショナリズム』 (柏書房)がある。これは持っていてぱらぱらと読んではいるのだが、なかなか難しい専門書。熟読にはいたっていない。
また『大声で歌え「君が代」を」 (PHP研究所)という本も出ている。これは刊行後すぐに一読した。数年前の本なので、ちょっと読後感の記憶が薄れているが、こちらは一般的な内容。面白く読んだ。
雑誌論文としてすでに「バチカンも容認 参拝は『聖なるもの』へのアプローチだ」(諸君! 2006年8月号)、「バチカンは靖国を認めている 愛国心による首相の参拝を容認する法王庁の『訓令』」(ボイス 2006年9月号)を書いており、週刊誌の論説は、そのダイジェスト版ともいえようか。カトリックの曽野綾子さんも堂々と靖国参拝をしていると公言しているから、宗教的理由で参拝がいけないわけもあるまい。
少なくとも政府関係者などが慰霊のために参拝するのは当然のこと。僕は民間の一個人でしかないし、その立場にある限り、また近い身内で靖国に祀られている人もいないから、特に例大祭や8・15にことさらのように参拝もしないし、強要される筋合いもないが…。

ケビン・ドークさんは、1960年生まれで、高校時代から日本に留学し、東大、京大、立教大、甲南大で日本近代史などを学んだという。当然日本語の読み書きも、あのデーブ・スペクターさんなみにできるようだ。

ともあれ、今度の駐日大使にはケネディの娘キャロライン・ケネディが内定している。某鳩山家とか見てもわかるように…?、親が立派でも子供や孫が立派とは限らないが…さてこんなケビンさんのような高い見識を日本に対して彼女が持っているだろうか?

それはともかく、アメリカ政府よ、もしくは次期共和党政権よ(?)、ケビン・ドークさんを駐日大使にするか、それが無理ならせめて公使にしてほしい(以前、慶応大学教授である阿川尚之氏が駐米公使になったことがあった。ライシャワー大使ももともとは学者出身であった。商社マンが大使になることもある。元産経の北京特派員・支局長でもあった古森義久氏を中国大使に任命するのもいいかも?)。

そしてドーク公使を、広島長崎の原爆忌や靖国神社の例大祭などに参加させてほしい。土下座をする必要はない。流暢な日本語で慰霊の言葉を寄せてくれたら、さぞかし日本人は喜ぶだろう。深々とお辞儀をしてくれたら、感謝するであろう。

すでに日米間には「価値観の共有」も原則としてあり、生き残った戦友たちの間で大きなわだかまりはない。民主主義国家として、互いに助け合ったことも広く報じられている。どっかの国のようにODAなどによる援助の実態を隠蔽するようなことをしていたら、日本の善意や謝意は相手国の草の根レベルの国民には届かないだろう。それは日本が悪いわけではない。相手国の品性、良心の低さが問題になるのだ。

 大社充氏の『奇跡のプレイボール~元兵士たちの日米野球~』 (金の星社)を読めば、日米間の生き残った兵士にとって恩讐の彼方に「戦争」がなっていることが分かる。文明国家、民主主義国家どうしなら、そうなるものだ。日中、日韓(?)関係が日米関係のようにならないのは、日本にも責任があるかもしれないが、相手側にもかなりの責任がある。フランスとドイツが共通教科書が可能になるのも、互いに文明国家どうしだからだ。日米共通の歴史教科書も20世紀史なら可能であろうが。

かつての最大の敵国の「政府関係者」が広島にも長崎にも靖国にも足を運ぶことによって、中共の「靖国カード」が行使できないようにしたいものだ。日本の外務省などはそういう「画策」をするべきだ。

それにしても、日本の元外交官(田中均氏)、「日本が自己中心的な、偏狭なナショナリズムによって動く国だというレッテルを貼られかねない状況が出てきている」「価値観外交と言えば、中国を疎外する概念になる。価値観外交と掛け声をかけることが正しいとは思わない」…と語っている(毎日新聞2013年6月12日朝刊「保守主義と歴史認識」)。

中国が「自己中心的な、偏狭なナショナリズムによって動く国」であるからこそ(なぜ、田中氏は、チベット、ウイグル、内モンゴルなどに対する過酷な異民族支配に対して「中国は自己中心的な、偏狭なナショナリズム」だと形容しないのだろうか?)、「価値観外交と掛け声をかけることが正しい」のである。国際紛争を解決するために軍事的なことをしないと誓っている平和国家日本にとって、「声の力」は唯一の武器である。その平和的「武器」を使うこともたしなめるとは? 頭は大丈夫なのか?

毎日の記事では「中国が将来覇権をとるようなことがないように共にけん制しようというのは、静かにやること。声を大にして『けん制しますよ』というのは外交じゃない。政治家は勇気を持って日中関係はいかに大事かを語らないといけない」とも話している。

しかし、「勇気をもって」中国のやっていることこそ、かつての日本軍もあっと驚くような「自己中心的な、偏狭なナショナリズム」であると指摘することこそが大事なのではないか。「声を大にして」といっても、別に大使館前でスピーカーの音量を最大にして、がなりたてているわけでもなんでもない。
外交的スピーチとしての声明でしかない。それが「外交じゃない」と断言するとは? 相手国の領海侵犯やロックオンをするのこそ「外交じゃない」「自己中心的な、偏狭なナショナリズム」と批判すべきではないのか?

安倍首相がこの田中発言に対して反論したそうだが、この点は、どう見ても安倍氏のほうが正しい。田中さんには、ケビン・ドークの爪の垢でも煎じて飲ませたいものである。


ケビン・ドークと田中均…月とスッポンとはこのことか?


ところで、先の毎日の「保守主義と歴史認識」と題したインタビューの二回目(6・13)に登場したのは田中均氏とはかなり異なる視点を持った渡部昇一氏。渡部氏のコメントが毎日に載るのもマレであろうか。
それはともかくとして、渡部昇一氏の『渡部昇一氏の着流しエッセイ① 市民運動はしばしばゆすりである』『渡部昇一氏の着流しエッセイ② ODA、使われる半分は人件費』 (広瀬書院)を読んだ。
最近の渡部昇一氏の著作には口述本が多いような感じだが(別にそれが悪いわけではないが)、この本はいろんなところに書いたエッセイをまとめたもの。昔読んだ『古語俗解』 (文藝春秋)のような読後感が残った。
茶髪にする女性は犯罪にあう確率が高いのでは? 入れ歯の入れられないホテルのコップ、柩を出せない団地のドアの狭さ、ボランティアの胡散臭さ…曽野綾子流ともいうべき人生エッセイ集といえようか。
こういう本を時々読むと、適度なシニカルな人生観が養えて楽しくなる。


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