古本虫がさまよう 2017年04月11日
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監視国家とは東独や北朝鮮みたいになることだろうに…。ビーアマンは叫ぶ「敗者の惨めな残骸め!」と。(2017・4・11・火曜日)



2017年4月9日の毎日新聞朝刊に、東独のシュタージに関する長めの記事が出ていた。懐かしいビーアマンの名前も出てきたので、一読。こんな記事だ。


旧東独・秘密警察の爪痕(その1) 統一後も新たな悲劇
毎日新聞2017年4月9日 東京朝刊
ドイツ
 1990年10月、東西ドイツは統一され、世界最大規模の監視国家だった旧東ドイツの秘密警察「国家保安省」(通称・シュタージ=Stasi)も姿を消した。しかし、膨大な内部文書が公開されると、多くの市民が衝撃を受けた。
<旧東独・秘密警察の爪痕(その2止)>身近にいたスパイ
 統一から1年がたったころ、シュタージの主導で旧東ドイツから追放(76年11月)された過去を持つ人気歌手のボルフ・ビーアマンさん(80)に一通の手紙が届いた。
 <親愛なるボルフ、あなたにシュタージ文書が開示されたことを新聞で知りました。(文書で)私を見つけたでしょう。「ヒバリ」とは、私のことです>
 ビーアマンさんは自身に関わる5万枚に及ぶ文書の一部に改めて目を通し、春告げ鳥のヒバリをコードネームにした女性を見つけた。「IM」と呼ばれるシュタージの密告者だった女性は上官の指示でビーアマンさんに接近し、男女の仲になった。
 <これ以上、国家保安省のために働くことはできません。私はビーアマンを愛してしまいました>
 女性は上官に文書でそう報告していた。東ドイツの独裁政党、ドイツ社会主義統一党に忠誠を誓う家庭に生まれ、地方劇場で女優をしていた彼女にとって、協力拒否はすべてを失うことを意味していた。
 「シュタージは、密告者に自分でコードネームを付けさせた。ヒバリが上官の将校に『ビーアマンを愛してしまった』とささやくなんて、すてきなことだろ」。ビーアマンさんは記者の手首を強く握った。
 「独裁者でさえ、人間のすべてを支配することはできないのだから」
 文書開示を機にさらなる悲劇や分断も生まれた。前週に続き、シュタージの「爪痕」を報告する。 <取材・文 中西啓介>

旧東独・秘密警察の爪痕(その2止) 身近にいたスパイ
毎日新聞2017年4月9日 東京朝刊
ビーアマンさんの元マネジャーだった連邦議会議員のディーター・デームさん。まくし立てるような早口でシュタージのスパイだったとされる疑惑を否定した=ベルリンの連邦議会議事堂で
<旧東独・秘密警察の爪痕(1)>統一後も新たな悲劇
 ◆ドイツ統一後、公開文書から発覚
愛する夫、友人まで
 東西ドイツ統一後、旧東ベルリンのアレキサンダー広場近くに「シュタージ文書庁」が発足した。
 旧東ドイツ政府の秘密警察・シュタージ(正式名・国家保安省)が残した、並べると総延長111キロ超に及ぶ文書や170万点以上の写真や音声など、膨大な資料を保管。シュタージの実態解明と被害者への情報開示を進めている。
 今年2月末、文書庁を訪れた記者(中西)は分厚いファイルを手にした。1976年に東ドイツから追放された反体制派歌手、ボルフ・ビーアマンさん(80)を西ドイツで監視していた男性密告者「ビリー」に関する資料だ。
 それによると、大学生だった「ビリー」は71年、西ドイツでジャーナリストをしていた別の密告者の仲介でシュタージと接触。「政治的な信念から」密告者になり、所属する西ドイツの社会民主党や大学などの情報を提供した。<任務遂行に向け、ひたむきに働いた>。75年の評価書にそう記されている。
 ビーアマンさんと親しくなったのは77年。シュタージ側に<ビリーとその妻クリスタがビーアマンと接触し、価値ある情報を手に入れた>と評価されていた。77年2月には、追放されたビーアマンさんの様子をこう報告している。<情緒不安定で時々極めてヒステリックになる><明らかに自尊心を失い、精神破綻の危機にある>
 だが、最終報告書(80年12月)には「ビリー」本人と連絡が取れなくなった、と記されている。理由はわからない。文脈から推測すると、シュタージ側がビーアマンさんへの心理的な「破壊工作」を要請したものの、「ビリー」が反対し連絡を絶ったようにも読み取れる。
 「ビリー」とは誰なのか。
 74年の資料に顔写真と本名があった。77年からビーアマンさんのマネジャーをしていたディーター・デームさん(67)が「ビリー」だったようだ。彼はいま、旧東ドイツの独裁政党・ドイツ社会主義統一党の流れをくむ左派党の国会議員である。
 ベルリンの壁崩壊25周年の2014年11月、ビーアマンさんはドイツ連邦議会のラマート議長に招かれ、圧制下の希望を込めた歌「エアムーティグング(鼓舞)」を披露することになった。
 壇上に立ったビーアマンさんはデームさんが座る左派党席をにらんだ。「議長は、私が左派党に平手打ちすることを望んでいるのでしょう」
 ビーアマンさんは自身に関するシュタージ文書を見て、元マネジャーのデームさんがスパイだったことを察していた。感情を高ぶらせ、左派党に向かって毒づいた。「敗者の惨めな残骸め!」
 演奏後、東ドイツで育ったメルケル首相がビーアマンさんに歩み寄り、握手を交わす。鳴りやまない拍手の中、左派党席だけが静まりかえっていた。
 記者は今年2月、ベルリンでデームさんに会った。彼はシュタージへの協力を頑として認めなかった。「ドイツ社会主義統一党を批判する勢力によって、個別のマイクロフィルムの文書が私の名前に改ざんされたのだ」
 シュタージ文書には、現金受け取りの際に発行されたとみられる本名<ディーター・デーム>と記載された領収書も複数あった。この点についても、彼は「領収書は存在しない」とまくし立てた。
東ドイツの反体制活動家から統一ドイツの国会議員になったレングスフェルトさん。統一後、夫がシュタージの密告者だったことが明らかになり家庭崩壊を経験した=ベルリンで
 「あなたの夫がシュタージの密告者だった、という記事が明日の新聞に載ります」
 統一ドイツの国会議員、ベーラ・レングスフェルトさん(64)は91年末、新聞記者から電話を受けた。
 旧東ドイツ時代、レングスフェルトさんは反体制派のヒロイン的な存在で、ビーアマンさんの知人でもある。シュタージなどの「闇」を解明する活動を続けており、その記者からこうも問われた。「議員を辞める気はありますか?」
 頭が混乱した。政治と無縁だった夫の裏切りなど、あり得なかったからだ。
 当初、ユダヤ系の夫は関与を否定。だが後日、友人が同席した話し合いの中で告白した。「(反ナチスの)東ドイツは僕にとってアウシュビッツ(で起きたユダヤ人らの大量虐殺)の答えだった。その国を守るためにやった」
 レングスフェルトさんは納得できなかった。「私たちの結婚とアウシュビッツや東ドイツに何の関係があるというの?」
 人気議員を巡るスキャンダル報道は過熱した。2人の息子にもカメラが向けられ、離婚を決意した。「ほとんど一夜にして家庭が崩壊しました」。レングスフェルトさんは目を伏せる。
 翌92年。レングスフェルトさんは自身が審議に関わったシュタージ文書法の施行により、自分に関わる文書の中に新たな事実を発見した。
 東ドイツ時代の89年6月、祖父の誕生日を祝うため、追放先の英国から帰国が許された時のことだ。「シュタージは夫もろとも私を殺害しようとして、夫の車の前輪に細工をしていたのです」。シュタージは、協力者だった夫の命さえ奪おうとしていたのだ。
 離婚から10年後、レングスフェルトさんは別れた夫から手紙をもらった。
 <君を守るため、シュタージに協力することを選んだ。申し訳なかった>
 初めての謝罪だった。家族を失ったことへのストレスからか、彼はパーキンソン病を患っていた。息子たちの見舞いを受けた時、既にうまくしゃべれず、動くこともできなかった。その姿を伝え聞き、石のように硬かったレングスフェルトさんの心は溶解したという。
 「私は彼を心の底から許したの……」
 元夫はその後、亡くなった。
 シュタージは76年の段階で、反体制派などを心理的に追い込み、精神の破壊を目指す作戦をマニュアル化していた。ドイツ統一後も、元職員の多くは口をつぐむか、責任を否定してきた。
 旧西ベルリンの下町に、作家で心理学者のユルゲン・フックスさん(故人)が呼びかけて発足した心のケア施設がある。訪れるのは、シュタージによる破壊工作の後遺症に苦しむ人々。心理療法を受けた人は約2万人に上る。
 フックスさんもビーアマン追放に反対し、ベルリン東部の監獄に9カ月間収監されて厳しい尋問を受けた。99年に48歳で亡くなるまで、シュタージ被害の回復に取り組んだ。現在、治療に当たる精神科医のシュテファン・トロービッシュリュットゲさんは言う。
 「社会復帰が困難な患者も多い。ただ、シュタージ職員の子供が被害者のことを知りたいと連絡してくることがある。この問題は次の世代によって、ようやく解決されるのかもしれません」
責任を認めない元中佐
 ナチスは糾弾された。しかし、第二次世界大戦後にできた独裁国家、旧東ドイツについては歴史的評価が定まらない。
 「私が大学入学資格を得られたのは、奨学金制度のおかげでした」。昨年5~6月、取材に応じた元シュタージ将校のウォルフガング・シュミットさん(77)は語った。東ドイツでは学生や職業訓練生への国家支援が充実していた。旧東ドイツ州の子供は今も、理系科目で旧西ドイツ州より成績が良い。女性の社会進出が推奨され、託児施設なども整っていた。
 彼は「最も重要だったのは平和が維持されたこと」とも語り、大規模な騒乱やテロと無縁だった東ドイツを誇る。牧歌的で快適な暮らしがあったのは事実だ。ただし、言論の自由を求めて政府に盾突かなければ、の話だったが。
 「ナチスに比べれば東ドイツの独裁は害が少ない」という声もある。しかし、こうした認識がシュタージに人生を奪われた人に対し、ナチス被害者に次ぐ「2級被害者」というレッテルを貼り、二重の苦しみを与えている。
 東西ドイツ統一条約では、シュタージのために働いた人々を公職から追放してもいい、と明記された。シュミットさんも追放を察し、統一直前に職を得た東ドイツ国営鉄道を辞めた。
 統一ドイツ政府はシュタージ元職員の年金も大幅に減らした。シュミットさんたちは91年、元職員らの名誉回復を目指す団体を設立。「不当な減額」に対する裁判闘争を展開した。99年に連邦憲法(最高)裁は年金の上限設定などを違法と判断したが、政府は判決内容に抵触しないよう法を改正し、減額を維持した。「あからさまな差別です」。団体の事務長を務めるシュミットさんは憤る。
 シュタージは独裁政党のドイツ社会主義統一党を守る「盾と剣」だった。党はいくつかの再編を経て、左派党として残存している。否定的なニュアンスがこもるシュタージという通称を普段使わないシュミットさんは、この点でも歯がゆさを隠さない。
 「党は責任を『国家保安省』に押しつけた。誰もドイツ社会主義統一党のことは言わないのに、みんなが『シュタージ』と呼んで批判する」
 シュタージで中佐まで昇進したシュミットさんの最終ポストは、課長職の分析統制班班長。第20部全体の作戦に関する全文書を見る権限があり、暗殺工作を議論したこともあったはずだ。しかし、自らが関わった作戦について口にすることはない。「謝罪は、現在の政治体制への屈服に過ぎない」
 責任を認めれば人生を否定し、愛する国家を裏切る、と考えているのだろう。
 会話をつなごうと、記者は窓の外の東ドイツ様式のビルに目をやった。
 「このあたりには今も、元同僚の方が住んでいるのですか?」
 「ここではないが、もともと職員だけが住んでいた地区があります。でも、今はそれほど目立たなくなった。たくさん亡くなりましたからね」。シュミットさんは寂しげな表情を見せた。「我々はもう、絶滅危惧種ですよ」
 つぶやくと、団体の創立25周年を記念したボールペンを記者の前に置いた。
 「よかったら使ってください」
 ぎこちない笑顔だった。
 旧東ドイツ政府崩壊のきっかけになった男、と評されるビーアマンさんは振り返る。「ギターを抱えた男を追放したところで、独裁が倒れるわけがない。東ドイツを揺るがしたのは追放に抗議した人たちだ。でも抵抗運動をした人なんて一握り。ほとんどの人はしっぽを丸め込んでいた」
 闘いを支えた仲間たちの顔を思い浮かべているのだろう。その多くも鬼籍に入った。インタビューは予定時間を大幅に超え、彼の表情に疲労の色が浮かんだ。「俺のように歴史の偶然で反逆者の役割を担うと、人間はとても孤独なんだ」
 1月末。ベルリン支局でふと机に目を落とすと、シュミットさんがくれたボールペンがあった。もう一度会いたい。取材依頼のメールで、ビーアマンさんに会ったことを告げた。届いた返信は、これまでの紳士的な文面と異なっていた。
 <ビーアマンは国家保安省や東ドイツの破滅を扇動した。そんなやつの宣伝に協力するつもりはない>
 連絡は途絶えた。
 ベルリンでは今、かつて街を分断した壁の跡はほとんど見かけない。だが、至るところに東ドイツの面影が残る。歴史はこの街に英雄を生み、被害者と加害者を残した。加害者もまた、被害者になった。それぞれが今も、分断が置き去りにした苦しみを抱え、生きている。
 ◆今回のストーリーの取材は中西啓介(ベルリン支局)
 2006年入社。甲府支局などを経て、12年に外信部。15年から現職。ドイツでは19世紀に北海道で盗掘されたアイヌ民族の遺骨について取材。報道は日本政府による遺骨返還協議の着手につながった。今回は写真も担当した。
 ツイッター(@mainichistory)発信中です。ストーリーの掲載日に執筆記者の「ひと言」を紹介しています。



さまざまな角度から「シュタージ」を追求した記事だった。

この記事を読んでいろんなことを思い出した。
僕がビーアマンの名前を知ったのは30年以上昔のことだ。何かの本で、東独にいながら反体制派の活動をしている歌手でビーアマンという人がいることを知った。反共リベラルではないが(?)…。どんな人だろうと思って、野村修氏の『ビーアマンは歌う』 (晶文社)という本を手にした。1986年の刊行。

(内容紹介)→東ドイツの歌う詩人ヴォルフ・ビーアマンとの初めての出会い。1982年、エルベ河畔のハンブルクでの再会。親しい友人にしてその詩集の訳者でもある野村修が、ビーアマンの生いたちから作品・レコードまで、厳しい状況下での生き生きとした活動を語りつくす。


野村氏も「反共リベラル」というわけではなく、淡々とビーアマンの境遇を紹介していたと記憶している。

そのあと、1989年、ベルリンの壁が崩壊。その直後に、ライナー・クンツェの『暗号名「抒情詩」―東ドイツ国家保安機関秘密工作ファイル』 (草思社)が出た。この本は衝撃的な内容であった。


内容(「BOOK」データベースより)→東ドイツの抒情詩人ライナー・クンツェは、反体制的な要注意人物として当局の厳しい監視下におかれていた。作品の刊行もままならず、公の場に出るにもさまざまな妨害にあう。そうした精神的苦痛のはてについに1977年、クンツェは西ドイツへの移住を余儀なくされた。そして1990年の東西ドイツ統合。これまで明かされていなかった東ドイツ国家保安機関の監視活動の内容が続々と明るみに出てきた。この機関には、400万人分もの自国民に関する秘密調査ファイルが保管されていたというが、その中にクンツェは自分に関するファイルを発見した。「抒情詩」というコードネームを付されたそのファイルは、全12巻、3491ページにもおよぶ膨大なものだったという。本書はクンツェ自身の編集による、クンツェに対して行われていた監視と秘密工作の記録であり、思想統制社会の戦慄すべき側面が、生々しく描き出されている。

自分と親しくしていた「友人」が実はシュタージの監視員だった事実を知り、衝撃を受ける。毎日新聞の記事にあったように、配偶者がそうだったりもするのだから……。もしかしたら僕の妻も?

クンツェの本と前後して、アナ・ファンダーの『監視国家―東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆』 (白水社)、 T.ガートン アッシュの『ファイル―秘密警察(シュタージ)とぼくの同時代史』 (みすず書房)、桑原草子『シュタージ(旧東独秘密警察)の犯罪』 (中央公論社)などが当時刊行されたが、さほど売れた記憶はない。

当時、こういう本を読み、オーウェルの『1984』とは、こういう世界のことだと感得したものだ。欧州ではこういう独裁監視国家は消滅したといえるが、アジアでは北朝鮮を筆頭に、中共、ベトナムはいまだに共産主義国家。それ故に東独(ソ連)的な監視体制は消滅していないといえよう。

日本でも、戦前戦時中、そういう「監視体制」が敷かれていた。以下再録的になるが、保阪正康氏編・東輝次氏著の『私は吉田茂のスパイだった ある諜報員の手記』 (光人社NF文庫)は、吉田茂の「書生」が当局のスパイだった事実を、当人の「告白」と共に記したノンフィクション。
 東氏は陸軍中野学校出身の陸軍の軍人でありながら、学歴や身分を偽って(傷痍軍人と偽装)、戦争末期、吉田茂の大磯邸の住み込み(書生)となってスパイ活動をすることになった。軍命により、吉田を「ヨハンセン」(吉田反戦グループの意味)と名付け、監視していたのである。
 戦後になってその活動を記した「手記」を残していた。吉田茂の周辺取材をしていた保阪氏が、遺族からその手記の存在を知り、それを収録すると同時に懇切丁寧な解説を付したのが本書である。
陸軍のみならず憲兵の方のスパイもいたとのこと。政府の二機関が、それぞれ別途に密偵を放って吉田茂を監視していたことになる。
 書生として仕事をこなす過程で、徐々に吉田の信頼を得ることに成功する。また要人相手の手紙が検閲されているために、しばしば東氏に手紙を託して上京させるのだが、その東氏がスパイなのだから世話がない。当然ながら、当局にその手紙を先ず持参し、丁寧に開封され写真撮影され、そしてまた閉じられて届け出ることになる。

 密偵として大磯邸に書生として行く前には電話の盗聴も担当し、吉田の人間関係や女性関係も熟知した上で密偵となっていたのである。吉田は、戦後、彼から告白されるまで、その事実を知らなかったという。

 東が、徐々にこの吉田にある種の好意を抱き、憲兵に逮捕された時には憤るあたりの感情の変遷は、東独のシュタージによる反体制派知識人(ドライマン)の監視を描いた『善き人のためのソナタ』 (映画)を彷彿させもする。この作品の場合、必ずしもノンフィクションではないが、監視のために彼の家(アパート)に盗聴器を仕掛け、それを屋根裏で四六時中(交替制)聞き耳をたてているヴィースラー大尉が、徐々にドライマンの発言や弾く音楽や読む書物などに感化されて、当局に当然報告すべき彼の不利な情報を握りつぶしたりもするようになってしまう(この映画のラストシーンも感動的だった)。

ただ、この映画、ブレヒトなどの本を反体制派知識人が愛読するなんてシーンがあって興ざめ。ここは、当然、オーウェルの作品でなくては…。東独では当時、オーウェルは発禁であっても、西独版が入手可能なのだから……。

東独の監視国家を風刺した映画としては、ほかにも「東ベルリンから来た女」や「グッバイレーニン」もある。めったに映画を見ない僕が見ているのだから秀逸?

「朝日ジャーナル」に連載されていた、例外的にまともな作品で、辛うじて朝日新聞の良心を反映した、仲井斌氏の『もうひとつの ドイツ ある社会主義体制の分析』 (朝日新聞社)も学生時代から一読していたので、東独への幻想を持つことはなかったが、当時、日本の「容共リベラル」の方々は、ソ連、中共など相次ぐ理想国家に多少なりとも幻滅しつつも、北朝鮮や東独は別物という感じで最後の幻想を抱いていたものだった。その幻想もベルリンの壁、拉致問題で精神的には消滅したはずだが……。

拉致を金正日が認めた時、拉致家族が「社会党、共産党出てこい!」と怒鳴っていたシーンがあった。あの時は生中継だったので、そのままオンエアされた。しかし、テレビ局にも北朝鮮シンパが多かったせいか(?)なぜか、再放送されることがないが…。拉致は原さんの件以外ありえないなんて言っていた東大バカ教授などの面々は、ビーアマンではないが、拉致家族から「敗者の惨めな残骸め!」と罵られても仕方あるまい。そんな根源的な反省の態度を己の行為発言に関して示すこともない「敗者の惨めな残骸」と選挙協力をするだなんて、民主主義的価値観の自殺行為でしかあるまい。そんな瓦礫化しつつある政党からやっと離党する人が出てきたようだ。ちょっと遅過晋作か? いやいや…?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!

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