古本虫がさまよう 2011年12月
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 この前、古河の古本屋で購入した山本茂美氏のエッセイ集『初めて知った生きている証』 (角川文庫)を読んだ。 『あゝ野麦峠』 (角川文庫)の著者として知ってはいたが、野麦峠は読んでもいないし、映画も見ていない。

 このエッセイ集は、昭和57年の刊行。そのせいか、活字ポイントが小さい(カバーにバーコードもない)。8ポだろうか。一行43字で17行ある。現在の普通の単行本なみの活字量である。ほんの一昔前は文庫といえども、これぐらいが普通であった(ちなみにこの文庫の頁数は300頁弱)。今の文庫の活字は9ポはあって、一行は39字ぐらい。マイナス4文字。行数は17行前後であろうか。
単行本も今は9ポ43字×17行前後がスタンダードであろうか。より大きな活字で、かつ一行40字(弱)ということもあるが。そうなると、文庫よりも活字量が少なくなる。

 なぜ、こんなことを言うかといえば、本書は主に教育に関するエッセイが収録されているが、著者はスパルタ教育というのか、男は男らしくというのか、逆境は人を強くする、順境は人を堕落させることもありうる…という姿勢で論じているからだ。要は若い時に苦労をするのは大事なことであり、酷い親をもっても、その逆境苦境のおかげで、外でのつらいことも何糞と耐え忍ぶことも可能であった例を紹介している。
失うものがあれば得られるものがあり、得るものがあれば失うものがあるのは世の常であるが、最近は何でも得ることしか関心を示さない人も少なくないだけに、現実の厳しさというか、奥深さを知る上で貴重な本といえる。

「人間というものは、いいと思ったことがかならずしもよくないし、また不遇かならずしも不運とはいえない場合が多い。人の世は円を描いている。幸運が不運に通じ、不幸が幸福のもととなっている。こうなってくると貧しさだけが唯一の鍛練の場になった。この間もかつてのエリートコースといわれた一高・東大出身者十数人の集いで子供の話になったら、この人たちの子供で父親の母校である東大に入学できたものはついに一人もいなかったという。世の中はけっこう回転しているのである」と。

 いや、東大は無理でも早稲田・慶應ぐらいは行っているだろうとか、この頃はともかく、今は格差社会で、親が金持ちで塾に行くカネがあれば高学歴も手に入れられる云々とマジに反論する向きもあるかもしれない。
しかし、世の中、そう単純なものではない。親が金持ちでラクして育ったら、高学歴にあこがれず、個人家庭教師をつけても、勉強に精出すこともなく、ロクデモナイ存在になることだってよくある。自分(?)や自分の身近な周辺を見回せば、そんな例はすぐに目につくものだ。以前も両親が医者で(当然高学歴・高収入)、子供が三人いたが、一人はどうしても医者になれず、家庭内殺人事件を起こした極端な例もあったではないか。日能研やサピックスに入れれば、有名私立一貫校に必ず入ることができ、有名大学に進学でき、一流企業の正社員になれるとでも思っているのだろうか?(そうなったからといってハッピーエンドというわけでもないだろう。上場企業で倒産する例もある)。 

 いまは参考書のみならず教科書もカラー刷りになり、文字は大きくなり、頁数は減り、詰め込み教育はよくないということで、一時は「ゆとり教育」バンザイ論が横行していた。「ゆとり教育」を推進していた文部官僚は、自分の子供は私立一貫校に入れたり、「格差社会反対」と言っている進歩的文化人も、自分の子供をこれまたちゃっかり進学名門私立に入れたりしている例も少なくないことだろう。

 それはそれで人生の矛盾であって、まぁ、いいのかもしれない。

 本も、昔は目が潰れるほど活字を読みたいということで、文庫だって細かな活字の上に、さらに二段組があった。山本氏のこの文庫の行数はたったの17行。もっと行数があった文庫本も古本屋を回ればすぐ分かる。岩波文庫の復刊本など、節約のため、新たに大きな活字で組み直すということをしなかった時期があって、そうした文庫を見ると、ちょっと僕でさえとっつきにくいと学生時代に感じたものだった。
 幸い、山本氏の文庫本は、購入してすぐに帰りの電車で読み始めたが、そんなに違和感はなかった。視力が低下していても、昔の活字の小さかった時代の修練の賜物か? ただし、車内の照明が所々ナンセンスな節電のために「暗い」ので、その分は読みにくく感じる時もあった。

 何度も指摘しているが、こういうナンセンスな節電をなぜ親方日の丸電鉄会社はやめないのか。本来なら、家庭内にも一部定着しているが、スイッチをフルに回したり、すこしゆるめにすることによって、電球の照明量を調節できるようなものを車内に設置すべきであろう。これなら、外を走る電車なら昼間はゆるめにすることも可能かもしれない。本当に節電しなくてはいけない時なら、夜でも地下鉄でも2割カットということもしたらいいかもしれない。
 今のように、蛍光灯そのものを割愛取り外し、特定箇所のみ「暗く」なるような野蛮な節電は、サービス低下以外のなにものでもないということを電鉄会社の経営者は理解していない。本を読むという習慣が彼らにはないのだろう。
 車内広告が照明不足のために見えにくくなり、広告効果が減少することに対する補償を、広告主にしているのだろうか? していないとしたら言語道断である。
 とはいえ、車内では本なんか読まない、いつも寝ているから、暗い方がいいという人もいるかも。でも、電車料金の中には、空調代やら安全に輸送する料金や車内で快適に過ごすための負担金などが充当されているのであり、その契約をきちんと履行しないのは問題のはず。

 ともかく、今日は大晦日。台所の棚を掃除すれば、賞味期限が切れたカレー粉や小麦粉などが次々と出てくる。やれやれである。読みもしない本を買うなという前に、食べもしないものを買うなといいたい? 本は腐らないのだから!?




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