古本虫がさまよう 文化
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「巨人の星」より「劇画の星」か?
(2017・1・13・金曜日)




1940年生まれの高野慎三氏の『貸本マンガと戦後の風景』 (論創社)を読んだ。

劇画の生みの親(?)でもある『影』や『街』にも当然のことながら触れている。この漫画(劇画)が掲載された実物は、以前、ある劇画家所蔵のものを何冊か借りて手にして読んだ(見た)ことがある。
その代表的作家でもあった佐藤まさあき氏や辰巳ヨシヒロ氏も、自叙伝として何冊かの活字作品を残している。佐藤まさあき氏の『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった〔劇画内幕史〕』 (文藝春秋)や辰巳ヨシヒロ氏の『劇画暮らし』 (本の雑誌社)など。辰巳氏の 『劇画漂流上下』 (青林工藝舎)は活字ではなくマンガ(劇画)で描いていたかと(記憶が曖昧だが)。
また高野氏が紹介している『全国貸本新聞』 (不二出版)も、一読したことがある。高円寺にこの前まで存在していた貸本屋も消えて久しい。僕の田舎でも高校時代までは「貸本屋」があって、一般に刊行されているマンガや週刊誌などを借りて読んでいたことがあったものだ。

長谷川裕氏の『貸本屋のぼくはマンガに夢中だった』 (草思社)も以前読んだ。細かい内容は忘れているが……。まぁ、少し前まで、いい歳した背広も来た大人が、「少年マンガ」を読むのには「?」と感じたものだ。そんなの小学生のころから読んでいたのにと(といっても、大学生の時まで、少年ジャンプと少年チャンピオンを読んでいたが)。背広来た大人なら、「少年ジャンプ」よりは「ビッグコミックオリジナル」程度ではと…。いまの子供(やいい歳した大人たち)はマンガや劇画ではなくてスマホに夢中といったところか? 人それぞれ、時代と共に変化するのはいいとしても、都会の人込みの雑踏で、歩きながら本を読んだり「スマ歩」するのはマナー違反だろう。
その意味で、バカが増えているというしかないが…。正月前後の東京が神社周辺は別にしても、電車なんかが空いていて一息つけるように、混雑時に「スマ歩」する手合いを、みんなシベリアにでも送れば、日本の都会も少しスッキリして落ち着くのでは?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「英語化」は「愚民化」か「多文化」か?「日本語」が亡びれば、「日本に恋する外国人作家」は増えない
(2015・10・15・木曜日)





(前日より続き)1971年生まれの施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (新潮新書)を読んだ。

グローバル資本を利する搾取のための言語=英語。気鋭の政治学者が「英語化」政策の虚妄を撃つ!英語化を進めた大学に巨額の補助金を与えるスーパーグローバル大学創成支援から、果ては英語公用語特区の提案まで。日本社会を英語化する政策の暴走が始まった。英語化推進派のお題目は国際競争力の向上。しかし、英語化を推進すれば、日本経済は急速に力をなくすだろう。多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が発展していくという現代政治学最前線の分析から逆行することになるからだ。国際政治の力学から見ても、英語による文化支配のさらなる強化は、世界の不平等を拡大するだけだ。グローバル・エリートと国民一般との分断。「愚民化」を強いられた日本国民は、グローバル資本に仕える奴隷となるのか。英語化の罠を暴き、公正な世界秩序づくりへの処方箋を描く、衝撃作!



よく知らなかったが、著者によると、ヨーロッパの知性を語る言葉は「ラテン語」「ギリシャ語」であったそうな。やがて『聖書』などを英語やドイツ語やフランス語などの「土着語」「民族語」「現地語」に翻訳していったそうな。

そういう過去を今日の日本にあてはめながら著者は考えていく。要は「ラテン語=英語」として。ラテン語(英語)をマスターできる知識層と、土着語(日本語)しか話せない一般庶民。その間にどんな格差が生まれるか。それがひいては国力の低下にどうつながるのか……。外国語・他国語の強制によって、創造力は低下する一方だとも。

日本人が、英語ができないとかいろいろいわれるが、おそらく、日本人が中国語や韓国語を学べば、わりとスムースに上達し定着するのではないか。文法やら漢字などで共通する土壌があるからだ。
欧米社会が、それぞれのアルファベットで共通する言語をマスターするのと同じだ。スペイン人がイタリア語を学ぶのは(その逆も)、日本人が韓国語を学ぶよりも容易といえるのかもしれない。モンゴル出身の相撲力士があれだけ、見た目も話しぶりも「日本人」と何ら変わらないのは、日本語とモンゴル語の類似性もあるのかもしれない?

逆に欧米人が日本語や中国語をマスターするのには、欧米諸国内部の相互の言語をマスターするよりは時間がかかろう(といっても、欧米出身の相撲力士も流暢な日本語を喋る。一定期間の集団生活が語学獲得の上で有利なのかも。だが、北朝鮮に拉致された日本人が、否応なく朝鮮語をマスターするというのは、語学学習としては、うらやましくもなんともないパターンであろう。蓮池薫さんが、中央大学法学部生だった時に恋人と共に拉致され、いまや地元の大学で朝鮮語を教えたり、新潮社から朝鮮語の本の翻訳をしているのは、不幸中の幸い、禍福は糾える縄のごとしと形容してもいいものかどうか……。こればかりは、躊躇うしかない? 生きているかぎりは幸せともいえようが)。

インドやフィリッピンの人々の中で、英語がしゃべれる人が多いのは(TOEFLテスト受験者の点数が高いのも?)、植民地統治故の話。スペイン語がフィリッピンや中南米の諸国で使用する国が多いのも、そのせい。

禍福はあざなえる縄の如しというわけで(?)、日本人はそういう植民地統治の体験をほとんどしていないからということもあり英語下手であるが、それは誇りに思っていいのかもしれない(マッカーサーなどの数年程度の統治で、これだけ「洗脳」史観が強制されていることを思えば…? 何十年、何百年も統治されたら民衆とて英語をかなりマスターできる?)。
その点、日本が外国に「植民地」にされたのは、敗戦直後の数年間。パンパンガールたちは、必要に迫られて英語に上達したものもいただろうが、それはあまり誇りにはならない? ともあれ、「必要は発明の母」?

そうした日本はダメ、日本より外国に青い芝ありという「洗脳」史観の影響もあってか、このままではグローバルな世界で遅れを取る、シンガポールを見習え…なんていうことで、小学生からの英語教育導入、中高大学でも、授業は英語で…なんて掛け声が叫ばれているが、著者は、そうした主張にことごとく反論を展開している。

この前、テレビを見ていたら、某私立進学校が、体育の授業などは「英語」オンリーでやっていた。この程度ならまだいいのかも? また新潟の国際教養大学は、先生も生徒も「外国語(原則英語)」授業とか。大学レベルなら、そういう特殊な大学があってもいいのかも? なんといっても、中嶋嶺雄さんが学長だったから。中嶋嶺雄氏の『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』 (祥伝社黄金文庫)は紹介ずみ。

中国の研究家としても著名な中嶋氏だが、秋田の国際教養大学(公立大学法人)の学長でもある(故人)。その学長としての立場から、自らの大学の良さを綴った本。授業は英語が原則。海外留学も一年は体験させる。図書館は休みなし24時間オープン。就職率は100%。しかも一流企業多しと。大学受験の難易度も東大、京大に継いで阪大並みとか。なぜ?と。でも就職率100%といっても、4年で卒業するのは入学者の半数程度とのこと。その点でも海外の一流大学並みの厳しい進学基準があるようだ。また中嶋氏は、英語の早期学習導入に賛成の立場。


日常生活にさほど英語が必要でない以上、普通の日本人は、そんなにはマスターはしようという気にもならないのかもしれない。翻訳書もたくさんあるし……。原語で読むのは、特殊な研究者?。

帯にも推薦の名を連ねている藤原正彦氏の国語論である『祖国とは国語』 (新潮文庫)も以前、面白く一読したものだ。成毛眞氏の『日本人の9割に英語はいらない』 (祥伝社)も、それなりに共感を持って一読したものだった。

そもそも英語ができる人に、英語不要論をいわれると(?)ちょっとヘンな気もするが…。僕のように英語がほとんどできない人間にすれば、英会話などをマスターするために必要な時間とお金は、好きな日本語の本の読書(や特定嗜好分野の映画鑑賞)に回したほうがいいということになろうか‥‥。

とはいえ‥‥。これまたなかなか安保法制のように、より正しいのはどっちかということが、単純には決められない?
いや、そんなことはない? まぁ、英文法も日本語の口語・文語文法もあまり好きではない科目だったから‥‥。

とはいえ、先の中嶋氏といい、泉幸男氏の『英語学習の極意』 (文春新書)のような語学の達人であると同時に、ちゃんと健全な愛国心もある人もいるし。バカなことを言っている外国人相手に向こうの「原語」「言語」で反論する人材を一定数育成することも必要だろうし。

また未読だが、ベンガル系インド人としてロンドンで生まれ、三歳の時にアメリカに移住し育ったジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』 (新潮社)という本が出ている。


「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。
子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。



家族環境故にバイリンガルなのに、さらにもう一つの言語を学び、第三番目に覚えた言葉で、そういう「創造的」なことを達成する人もいる。そのあたりのことに、松家仁之氏も注目して、「イタリアに恋する女性作家」(毎日新聞2015年10月6日夕刊)として紹介していた。
なるほど‥‥。須賀敦子氏も、フランスに留学したものの肌になじまず、途中で旅したイタリアにつよく惹かれ、住みつくことになったとのこと。

「英語を置き去りに、第三の言語で小説を書き始める小説家は、ラヒリをもって嚆矢とし、つづく作家が出てくる、としたらどうだろう。そこには文学のあらたな光が射し込む可能性があるだろうか」

日本にもドナルド・キーンのような人がやってきて、住みつき、作品を発表している。松家氏も施氏も、水村美苗氏の『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』 (ちくま文庫)に言及もしているが、日本語が亡びると、キーンのような人につづく「外国人」もいなくなる。「日本に恋する外国人作家」「日本に移住する外国人作家」をもっと生みだすことも肝要では。

やはり、我々日本人は先ずは「日本語」を愛して使って広げていく努力も忘れてはいけないのではないか。その上で、外国語は英語も含めて、もちろん排斥・排撃することなく、ある程度受容して、それぞれのレベルで使いこなせばいいのではないか。

まぁ、従来通り、中学レベルから英語学習を始めていけば十分では?

ともあれ、英語やそれ以上の複数の言語がしゃべれる、書けることが唯一最大の人間評価のポイントにならないように工夫すればいいのかも。

しかし、世の中には、『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』 (小倉博行氏・白水社)なんて本もある。これまた未読未購入だか、タイトルからすると、著者はこの難解な外国語をマスターしているかのようである。

とにもかくにも、英語教育システムは、中学からで十分ではないのか。小学校からやりたい人は、家庭教師でもつければいいのだ。そうしたら、金持ちの子供だけが外国語をマスターするようになるなんて叫ぶ単細胞な人が出てくるかもしれない。

でも恥ずかしながら告白するけど、、小学校の時、そうやって英語塾に通っていたなれのはてが、僕だ? 所詮は、生まれつき? 金かければ、みんな誰でも英語ができるようになるとか、数学ができるようになるといったバカな神話は捨てること。

何十もの教科の中から、自然と自分の好きなもの、得意なものが分かり、それをなるべく活かして、自分の人生の活路を見つけていくのが教育の意義。

勉強的科目ができなくても、体育は得意。マットは苦手でも走るのだけは得意。そういう細分化された分野でもいいから、何か自分の得意なもの、好きなものを見つけていけばいいのに‥‥。

一律、画一的な視点からの科目のみを重視したり、それができないと不要なコンプレックスを抱いたり、それはかわいそうだからなんとかしなくちゃということで、百メートル競争を廃止したりバカな悪平等的教育をやってきた。英語教育を小学校から一律にやるのは、やはり愚の骨頂という気がする。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「NHKスペシャル」もやればできるじゃん? 
(2014・7・23・水曜日)









小山和伸氏の『これでも公共放送か NHK!  君たちに受信料徴収の資格などない』 (展転社)を読んだ。タイトル通りの本。
慰安婦問題も含めて、NHK番組批判論。
まぁ、ジキルとハイドというか、NHKにもいい番組もあるのだろうが、僕もたまに見ようかと思ってチャンネルを点けたのが、著者も酷評している「ジャパンデビュー」の一回目。
冒頭、十分ぐらい見て、アホ臭と思ってチャンネルを変えたものだ。
日本の悪口を言うヘンな台湾人が登場するなと思ったら、実はその人はまともで、彼の発言した対日マイナス発言だけをことさら強調する番組造りをしていたのだから、明らかな偏向番組であったというしかあるまい。訴訟沙汰になって当然であろう。

この前紹介した親日派のトニー・マラーノさんのような人でも、その発言を切り貼りしたら、新韓派みたいな発言に「捏造」することは可能かもしれない。そういうことをNHKは少なくとも、あの番組で一部やったのだろう。偏向番組であったとの批判は免れない。裁判でも一部負けたのは当然だ。

テレビは「読書の敵」になることが多くて、なるべく見ないようにしているが、何が起こっているかの最低限度のニュースとして、また今日は晴れるのかな?という確認、お天気姉さんの渡辺蘭さんの笑顔(これ以上、誰かさんではないけど太らないで!)を見たくてNHKを見ることはある。
NHKのみならず、テレビとは、その程度の清い、薄いおつきあいで十分かしら?
テレビより「活字」の世界のほうが個人的には好きだし。

と思っていたのだが、今日帰宅して、7時半から始まったNHKスペシャル「京都・祇園祭千年の謎」「生中継!幻想の宵山秘められたミステリー」「祭りを彩る謎の至宝」「世界が注目!」「幻の織物」「歴史ロマンと豪商の夢」「圧巻!豪華山ほこ巡行」をたまたま見たのだが、結構面白かった。エロス問題に造詣の深い井上章一先生も登場し、いつものように大胆な井上説を展開しているのも心地よかった?

NHKも現代史イデオロギーにあまり関係のない分野なら、まともな番組も少し作れるのだということを感得した次第。

以前、所要で京都に今頃の季節出かけたことがあった。祇園祭をやっている時だったが、あまり関心はなかった(祭りは全体主義的色彩が濃厚でさほど好きではない。よさこいとか阿波踊りとか、ああいう踊りも、みんなが同じ恰好で踊るのを見物するのはあまり好きではない。煩いし? でも踊りたい人が踊るのはご自由に。ただ、それを見学するしないは個々人の自由。それが保障されるなら、祭りをしたい人が、「私費」&(若干の公費援助)」で原則行なうことに関してはことさら反対はしないが…)。だから、京都での所要が終わったら、祇園祭りも何も見ることなく(ちょっと古本屋は見たが)日帰り。京都で会った人が、この時期に京都に出張するなんて、祇園祭目当てでしょうと言われて「???」と思った程度の非文化人である。

そんな僕であるが、このNHK番組はなかなか面白かった。江戸時代にオランダなどから贈られた幕府への献上品(絨毯やら‥)が、借金のかたで豪商に渡り、それが祇園祭などで披露されているそうな。知らなかった。そして、そうしたものが、貴重な文化財であり、欧州の研究者が驚きをもって見ていたとか。欧州が探し求めていた幻の絨毯が京都にあったから‥‥。
アメリカ軍の空襲が、何らかの事情で、京都が標的から離れたとの説があるが、やはり、空襲の被害があまりなかったのはよかったといえるのか‥‥。吉田守男氏の『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)などを見ると、米軍は、単に、朝三暮四ではないが(?)楽しみは最後まで取っていただけなのかも?

ともあれ、京都に外国人の観光客がやってくるのも、むべなるかな? 
まぁ、京都っていう街にはさほどの関心もなく、古本屋も、京都の古本屋はちょっと仏教色が濃いところが多くて、買いたい本が少なくて辟易することもあるのだが‥‥。
それはさておき、NHKもやればできるじゃん? 問題は、現代史イデオロギーがらみの番組作りには、日教組レベルの単細胞プロデューサーが跋扈しているところなのかな。

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「本屋」と「本屋大賞」の舞台裏(2014・1・27・月曜日)









木村俊介氏の『善き書店員』 (ミシマ社)を読んだ。六人の書店勤務の人への「オーラルヒストリー」的な本。本との出逢いや職業として書店員を選んだ理由や仕事の内容などなど…。

正社員ではなく定時社員、立ち仕事故の大変さ、ブックセールなど、「本屋大賞」に関与した人、青山ブックセンター(六本木)に勤務していた人など…。

本屋で新刊本などを見て、買って帰るだけの「利用者」にはうかがいしれない本屋の舞台裏を観察できる本でもあった。
大手チェーン店でも、ポイント制度を導入していない店でレジをしていると、会計の途中で購入をキャンセルする「利用者」もいたりするそうな。ううむ。
聞き手は木村氏だが、まとめ的には、各自の語り下ろし風になっている。
書店につきものの「万引き」の話が特に(あまり?)出てこなかったように思うが、それがちょっと?

それにしても、僕はアマゾンや通信販売で本を買うことはめったにないのだが、それでもアマゾンから時々メールがきて、「古本虫さまへおすすめの本」なんてやってくる。「管理社会」的? まぁ、書評みたいなものと思えば、有り難き? アマゾンやネットで、カード決済で本を購入する人も増え、書店不要論なども出てきそうだが…。
八重洲ブックセンターもめったに行かなくなり、ジュンク堂などイスがあるのがどうも苦手で寄らない。寄るのは古本屋行脚の「ついでに」神保町界隈の新刊書店ぐらい。

でも、東京堂は改造後、新刊コーナーがレジ前でスペースが狭くなり、カフェが設置され、店内もちょっと照明が暗くなった。雰囲気重視? 邪道では?

三省堂も一階に「文房具屋」さん(?)が入ってきた…。東京堂も三省堂もレジは一階のみ?
本売場のスペースが減るのが個人的には嫌ではあるが…。売上のためには、本にばかり頼るわけにもいかないという事情もあるのだろう。邪道だとは思うけど…。岩波ブックセンターは、左寄りの本を探す上で、模索舎同様便利ではある。そういえば、「みすず」(2014・1&2月号)はもう出たであろうか?  毎年、岩波ブックセンターで買っているけど、先週はまだ12月号が鎮座していた。

以下書店、書店員関連の本で以前書いたものの再録。

今泉正光氏の『「今泉棚」とリブロの時代』 (論創社)を読んだ。小田光雄氏が聞き手となった「聞き語り」方式の本。今泉氏は一九四六年生まれ、キディランド、西友、西武池袋、リブロ、煥乎堂、平安堂など書店員として長年仕事をしてきた人とのこと。とりわけリブロで人文科学系統のブックフェアを何度もやって沢山の本を売ったことで知られるという(僕は全く知らなかった。西武池袋は古本市をやっていた時は寄っていたが、それ以外はあまり立ち寄ることはなかった。新刊書店は学生時代から専ら神保町界隈を利用していたので)。
 世代的には全共闘世代の人で、高校時代から浪人、学生時代も専ら本を読むことに専念していたという。そういう蓄積が書店員としてのブックフェア開催にも貢献したようだ。巻末にリブロ時代に作ったブックフェアの書名一覧のパンフが「復刻」されているが、ほとんど読んでいない? 大室幹雄氏が挙げている書名の中に辛うじて積ん読ではなく読破している本が何冊かある程度(『凍土の共和国』『中国人』『ロシアン・ドクター』 等)だ。まぁ、それだけ本というのは世界が広く、関心のある分野、ない分野は人によりけりだ。
 
著者がリブロで書店員として活躍していた八〇年代から九〇年代にかけてはバブル前後の時代で、堤オーナーのツルの一声もあったりして売り上げも順調に延びていたものの、それでも四苦八苦していたという。万引きもあった。また、よく売れたといっても、見栄で買う人も多々いたことだろう。『構造と力』『チベットのモーツァルト』 など……。著者も「本当に読まれたのかという思い」を持っているようだし、後著の著者に関してはオウムとの関連で複雑な思いもしているようだ。
 池袋西武は当時も今も時々古本市をやるので、その時だけ立ち寄り、見た後、古本屋に移動する際にリブロ書店を少し覗く程度でしかない。個性ある新刊屋のイメージはあるのだが……。
 リブロと関連する書として(以前このブログですでに紹介ずみだが)永江朗氏の『セゾン文化は何を夢みた』 (朝日新聞出版)がある。堤氏が安部公房の『燃えつきた地図』 を自分のデパートの書籍売場で買おうとしたら見つからない。店員に聞いたらすぐさま地図売場に案内された。これではいかんと思ったらしく、先の本でも登場する小川道明(理論社)をスカウトして書籍売場の充実を図ることになった(その延長で今泉氏も事実上スカウトされて入社することになった)。そんな話が出てくる。

この前ユニークなカリスマ書店員の今泉正光氏の本を紹介したが、同じくカリスマ書店員の伊藤清彦氏の『盛岡さわや書店奮戦記』 (論創社)を読んだ。聞き手は小田光雄氏。一関生まれで雑貨屋ぐらいしかなくそこで雑誌を手にする程度の読書環境で育ったとのこと。高校生になって通学時間を読書に当てるようになり読書の楽しみを知る。やがて上京し池袋の芳林堂などに感激する(ここは古本屋も同居していたし周辺にも古本屋があったので僕もしばしば通った。左翼文献も充実していたかと?)。大学は中退し本好きが嵩じて書店でバイト。新宿マイシティ内の本屋や町田や盛岡のさわや書店などで本好き故に立地に適した本の選択・蒐集・販売を行ない、売り上げを増加させていったとのこと。ポップを活用したり地元のラジオ番組で本の紹介をしたりして「読書世論」を喚起することも心がけたという。そのためにもせっせと本を読んだりもしていたようだ。

町田では女性客が多いのにフランス書院文庫が目立つところにあったりしたのを改善。ところが盛岡の書店では女性店員が多いせいかその手の本は最初から返品対象。ワニブックスの写真集は「汚いから」一冊も置かない状況。そうした「偏在」を改善するだけでも売り上げは伸びていったという。コロンブスの卵みたいな話だ。やはり読書は「ジキルとハイド」のバランスを保つことが大事だということが分かる?

マイルドな恋愛物の作家の本だけを並べていては、男性の本好きな人はそういう書店は敬遠するようになるとの伊藤氏の指摘はもっともである。

しかし、ケータイ小説や血液型本などには蔑視感を持っているようで郊外型大型書店が平台の一番いいところにそういう本を置きがちなのには苦言を呈している。また本の売り上げに貢献するのはブログや書評やテレビやツイッターではなくラジオであるとも指摘。確かに相対的にも本好き、本購入派はパソコンの類は苦手でテレビは読書時間を奪うメディアというイメージを持っている人が少なくあるまい。
僕なども寝る時や起床時には布団の中で某ラジオ(深夜便)を聴いているが、今朝も起床前に語っていた盲導犬利用者の本をチェックしたところ(それにしても盲導犬を連れてレストランに入るのを拒む店があるとのこと。そういうことはしてはいけないと法的にも決められているという。そのくせ盲導犬より迷惑をかける臭い喫煙者は歓迎するのは本末転倒だろう。こちらは健康増進法で区分けしなくてはいけないのにしないのだから。それにしても犬畜生にも劣るという言葉は差別語として改良する必要があるかも。猫畜生にも劣るとすべきか。猫は盲動猫になれないし、食用にもあまりならないし、糞ばかり垂らすケシカラン存在ではないか)。
伊藤氏のこの本は大変面白かった。ただ万引きなどに関する問題は特に触れていないが、この問題は書店にとっては重要。
 伊達雅彦氏の『傷だらけの店長 それでもやらねばならない』 (パルコエッタテインメント事業部。その後、サブタイトル改題の上、新潮文庫に入ったようだ)はその点でも参考になる。伊達氏も学生時代から書店でバイト。そのまま書店勤務。店長にもなる。が、近くに大手チェーン店ができ、客足が鈍る。やがて閉店、退職。その本とまつわる歩みが綴られているエッセイ集。出久根達郎氏の実録「古本屋」小説にも似た雰囲気があり、ノンフィクション・ノベル的色彩も感じられる。なかなか味わい深いというのか悲哀さも漂う書店論でもある。万引きを絶対許さないというシーン、山のように届く書物にため息をつく……。書店ふぜいと罵られたり、届く本を並べるだけの楽な商売と見られたり……。ご苦労さまというしかない。 
  



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