古本虫がさまよう 文化
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気象庁の予想外れの大雪で帰宅ラッシュとなった電車でバカな若者と遭遇して、川上源太郎さんの『親の顔がみたい』を思い出した
(2018・1・22・月曜日)




本日は天気予想もまぁまぁ当たったのか? いやいや、東京の積雪は最新では5センチの予想だったのでは? 午後9時ぐらいで4倍以上、20センチ以上積もったというから予想外れというしかあるまい。 気象予報士たちは「予想より多く…」とか言ってごまかしていたが。「予想が外れて…」となぜ正直にこの人たちは言わないのだろうか? 「嘘つきは気象予報士の始まり」? 最終的に何倍になるのやら? 「予想課長」は丸坊主必至?

ともあれ、東京周辺は正午前後から「大雪」。ということもあって、仕事場を午後4時すぎ早めに出て電車に乗った。かなりの混雑。三人掛けの座席の前に立っていたら、たまたま降りる人がいて、スンナリと着席。

すると斜め前に立っていた若者…。濡れた傘(折り畳みではなく,普通の傘)をきちんと畳まずに無造作に、なんというか、要は半ば「開いたまま」にして、スマホをいじりながら、飛行機の便をチェックしたりしている。そして隣の友人とナントカまで27000円なんて高いよな…とか。ノンビリ会話をしている。聴いていると、卒業旅行云々。まぁ、就職先も決まっている大学4年生なのかね。

朝の通勤ラッシュ並みの混雑だから、濡れた傘が、こちらの膝に当たるのは仕方ないとしても、傘を半ば開いたままにするのはマナー違反だろう。なぜ、きちんとベルトで「閉じない」のだろう? 頭が悪いのか?

一駅、二駅過ぎて降りるかなと思ったが、降りない。やれやれ。見た目は茶金髪でもないし、耳や鼻にピアスもしていないし、髪形も暴力団員でもなさそうなので(?)、腰のあたりを「トントン」として、「傘、閉じたらどう?」と注意をした。すると、頭はともかくとして、耳は不自由ではなく、聞こえるみたいで、「あっ、すいません」と言って閉じてはくれたが……。

その男、足下には無造作にカバンを置いていた。横長のカバン。網棚は余裕があるから、そこに置けば、足下の空間が少しは広がって、周辺の人も足の置き場ができていいだろうに……。そういう配慮も浮かばないようだ。

未成年者ではなさそうだったが、思わず、川上源太郎氏の『親の顔がみたい』 (ゴマブックス)というタイトルの本が浮かんだ。

この本、調べてみると、1975年の刊行。のちに角川文庫の一冊にも入った。大学に入ったころ一読した記憶がある。40年近く前に読んだきりなので、詳しい内容は忘れた。たしか、続編『続・親の顔が見たい』 (ゴマブックス)も読んだ。その前後に『修養のすすめ』『学校は死んだ』 (ゴマブックス)も刊行されていたかと。日教組批判の書でもあったかと。

川上さんは、そういうベストセラーを出したこともあって、参議院選挙(全国区)にも立候補したのではなかったか。一票を投じた記憶もあるが落選。落選後は、ワイドショーのミニ司会をやったり、学究の世界に戻ったりしていたかと。ジョルジュ・ソレル『進歩の幻想』 (ダイヤモンド社)やレイモン・アロン『ヴェーバーへの道』 (福村出版)の翻訳もしていた。

『親の顔がみたい』は、若い女性のマナー違反の数々を批判した本だったか? しかし、男であれ女であれ、若造であれ、年寄りであれ、公共空間でのマナーは、赤ん坊や小学生ならまだしも、そこそこの年齢以降は、自己責任で確立してしかるべきだろう。混雑した電車の中で、濡れた傘を半ば開いたまま、平然とスマホをいじったりしているのは、どう考えても本人の責任とはいえ、やはり「親の顔がみたい」とつぶやきたくもなる。電車という公共マナーが問われる最たる場所で、こんな不作法をしているようでは、こういう手合いの将来を危ぶむしかないね。

こういう愚鈍系の人々が、「禁煙」の表示があるところでも、平然とタバコを吸ったりするのではないかな? 「スマ歩」する人が「歩きタバコ」もやったりする。

一度注意を受けて、今後は、雨の日、傘は電車内では閉じる、畳むことが必要だと認識して、マナーが改善されたらいいのだが…。二十歳過ぎても、人に注意されないと、そんなことにも気付かないようでは無理かな?

こんな手合いが、将来の日本を背負う? やれやれ。日本の将来は決して明るいとはいえないだろう。バカは死ななきゃ治らないから? 古本屋で『親の顔がみたい』でも入手して、一読して悟ってほしいものだが。成人の日には、こういう本を「引き出物」として配布するといいのでは?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「アベ政治を許さない」から「キン(キム)政治を許さない」になぜならないのか?
(2017・9・8・金曜日)






「アベ政治を許さない」といったプラカードを持ってデモをしている人をよく見かける。日本は、言論の自由があるからいいとして、ただ、そういう人たちは「アベ政治」が「一強」とか、「独裁」とか、そういうニュアンスをこめて政治活動をしているのでは? 議会制民主主義国家で、議会の多数決で物事が決まることに疑問を持ち、直接民主主義的な、自分たちのデモこそ「民意」だとの自負を持っているのではないか。

だったら、ついでに「アベ政治を許さない」と並んで「キン(キム)政治を許さない」とか「キン(キム)核実験を許さない」とかのプラカードも作って一緒に掲げたらどうかな? 向こうは「一党独裁」「超一強」の政治体制。自由で民主的な選挙もない。当然抗議の対象となるべきだろう。

それはさておき、読売新聞(2017・8・15)で紹介されていた玉井清氏編の『「写真週報」とその時代 上 戦時日本の国民生活』『「写真週報」とその時代 下 戦時日本の国防・対外意識』 (慶應義塾大学出版会)をぱらぱらと拾い読みをした。

内容(「BOOK」データベースより)
戦時中、政府のプロパガンダを国民にわかりやすくアピールする目的で、昭和13年2月から20年7月まで発行されていた国策グラフ雑誌『写真週報』。当時掲載された350点を超える画像を紹介しつつ、そこから読みとれる当時の政策、国民の生活や意識を立体的に描き出す。下巻「戦時日本の国防・対外意識」では、啓蒙活動による国防意識の刷り込みや、大東亜共栄圏構想や南進政策といった外交方針、同盟国ナチス・ドイツの礼賛と英米に対する誹謗などがいかに喧伝されたかを明らかにする。


「写真週報」は、1938~1945の間、刊行された政府の一般国民向けのグラフ雑誌。記事では、玉井氏のコメントとして、ナチス・ドイツとは異質で、「統合された強固な政治体制によるものなら、こんな誌面にはならない」「国民生活は窮屈で言論も狭まっていたが、戦後言われるほど、全体主義や弾圧が覆い尽くされていたわけではない」というものが紹介されていた。なるほどと思わないでもない。昨今の北朝鮮国内の、核実験バンザイ集会の模様を見るにつけ、戦時中前半の日本の提灯行列と比べてもちょっと異常では?

ともあれ、このテーマの関連書としては、保阪正康氏監修・太平洋戦争研究会編の『「写真週報」で見る戦時下の日本』 (世界文化社)や玉井清氏編の『戦時日本の国民意識 国策グラフ誌「写真週報」とその時代』 (慶應義塾大学出版会)などがある。

この「写真週報」は、大空社から復刊されているようだ。 『フォトグラフ戦時下の日本第1~18巻』『別巻』『補遺編1~3』として。一部図書館で閲覧は可能のようだ。暇があれば見てみたいが…。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「巨人の星」より「劇画の星」か?
(2017・1・13・金曜日)




1940年生まれの高野慎三氏の『貸本マンガと戦後の風景』 (論創社)を読んだ。

劇画の生みの親(?)でもある『影』や『街』にも当然のことながら触れている。この漫画(劇画)が掲載された実物は、以前、ある劇画家所蔵のものを何冊か借りて手にして読んだ(見た)ことがある。
その代表的作家でもあった佐藤まさあき氏や辰巳ヨシヒロ氏も、自叙伝として何冊かの活字作品を残している。佐藤まさあき氏の『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった〔劇画内幕史〕』 (文藝春秋)や辰巳ヨシヒロ氏の『劇画暮らし』 (本の雑誌社)など。辰巳氏の 『劇画漂流上下』 (青林工藝舎)は活字ではなくマンガ(劇画)で描いていたかと(記憶が曖昧だが)。
また高野氏が紹介している『全国貸本新聞』 (不二出版)も、一読したことがある。高円寺にこの前まで存在していた貸本屋も消えて久しい。僕の田舎でも高校時代までは「貸本屋」があって、一般に刊行されているマンガや週刊誌などを借りて読んでいたことがあったものだ。

長谷川裕氏の『貸本屋のぼくはマンガに夢中だった』 (草思社)も以前読んだ。細かい内容は忘れているが……。まぁ、少し前まで、いい歳した背広も来た大人が、「少年マンガ」を読むのには「?」と感じたものだ。そんなの小学生のころから読んでいたのにと(といっても、大学生の時まで、少年ジャンプと少年チャンピオンを読んでいたが)。背広来た大人なら、「少年ジャンプ」よりは「ビッグコミックオリジナル」程度ではと…。いまの子供(やいい歳した大人たち)はマンガや劇画ではなくてスマホに夢中といったところか? 人それぞれ、時代と共に変化するのはいいとしても、都会の人込みの雑踏で、歩きながら本を読んだり「スマ歩」するのはマナー違反だろう。
その意味で、バカが増えているというしかないが…。正月前後の東京が神社周辺は別にしても、電車なんかが空いていて一息つけるように、混雑時に「スマ歩」する手合いを、みんなシベリアにでも送れば、日本の都会も少しスッキリして落ち着くのでは?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「英語化」は「愚民化」か「多文化」か?「日本語」が亡びれば、「日本に恋する外国人作家」は増えない
(2015・10・15・木曜日)





(前日より続き)1971年生まれの施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (新潮新書)を読んだ。

グローバル資本を利する搾取のための言語=英語。気鋭の政治学者が「英語化」政策の虚妄を撃つ!英語化を進めた大学に巨額の補助金を与えるスーパーグローバル大学創成支援から、果ては英語公用語特区の提案まで。日本社会を英語化する政策の暴走が始まった。英語化推進派のお題目は国際競争力の向上。しかし、英語化を推進すれば、日本経済は急速に力をなくすだろう。多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が発展していくという現代政治学最前線の分析から逆行することになるからだ。国際政治の力学から見ても、英語による文化支配のさらなる強化は、世界の不平等を拡大するだけだ。グローバル・エリートと国民一般との分断。「愚民化」を強いられた日本国民は、グローバル資本に仕える奴隷となるのか。英語化の罠を暴き、公正な世界秩序づくりへの処方箋を描く、衝撃作!



よく知らなかったが、著者によると、ヨーロッパの知性を語る言葉は「ラテン語」「ギリシャ語」であったそうな。やがて『聖書』などを英語やドイツ語やフランス語などの「土着語」「民族語」「現地語」に翻訳していったそうな。

そういう過去を今日の日本にあてはめながら著者は考えていく。要は「ラテン語=英語」として。ラテン語(英語)をマスターできる知識層と、土着語(日本語)しか話せない一般庶民。その間にどんな格差が生まれるか。それがひいては国力の低下にどうつながるのか……。外国語・他国語の強制によって、創造力は低下する一方だとも。

日本人が、英語ができないとかいろいろいわれるが、おそらく、日本人が中国語や韓国語を学べば、わりとスムースに上達し定着するのではないか。文法やら漢字などで共通する土壌があるからだ。
欧米社会が、それぞれのアルファベットで共通する言語をマスターするのと同じだ。スペイン人がイタリア語を学ぶのは(その逆も)、日本人が韓国語を学ぶよりも容易といえるのかもしれない。モンゴル出身の相撲力士があれだけ、見た目も話しぶりも「日本人」と何ら変わらないのは、日本語とモンゴル語の類似性もあるのかもしれない?

逆に欧米人が日本語や中国語をマスターするのには、欧米諸国内部の相互の言語をマスターするよりは時間がかかろう(といっても、欧米出身の相撲力士も流暢な日本語を喋る。一定期間の集団生活が語学獲得の上で有利なのかも。だが、北朝鮮に拉致された日本人が、否応なく朝鮮語をマスターするというのは、語学学習としては、うらやましくもなんともないパターンであろう。蓮池薫さんが、中央大学法学部生だった時に恋人と共に拉致され、いまや地元の大学で朝鮮語を教えたり、新潮社から朝鮮語の本の翻訳をしているのは、不幸中の幸い、禍福は糾える縄のごとしと形容してもいいものかどうか……。こればかりは、躊躇うしかない? 生きているかぎりは幸せともいえようが)。

インドやフィリッピンの人々の中で、英語がしゃべれる人が多いのは(TOEFLテスト受験者の点数が高いのも?)、植民地統治故の話。スペイン語がフィリッピンや中南米の諸国で使用する国が多いのも、そのせい。

禍福はあざなえる縄の如しというわけで(?)、日本人はそういう植民地統治の体験をほとんどしていないからということもあり英語下手であるが、それは誇りに思っていいのかもしれない(マッカーサーなどの数年程度の統治で、これだけ「洗脳」史観が強制されていることを思えば…? 何十年、何百年も統治されたら民衆とて英語をかなりマスターできる?)。
その点、日本が外国に「植民地」にされたのは、敗戦直後の数年間。パンパンガールたちは、必要に迫られて英語に上達したものもいただろうが、それはあまり誇りにはならない? ともあれ、「必要は発明の母」?

そうした日本はダメ、日本より外国に青い芝ありという「洗脳」史観の影響もあってか、このままではグローバルな世界で遅れを取る、シンガポールを見習え…なんていうことで、小学生からの英語教育導入、中高大学でも、授業は英語で…なんて掛け声が叫ばれているが、著者は、そうした主張にことごとく反論を展開している。

この前、テレビを見ていたら、某私立進学校が、体育の授業などは「英語」オンリーでやっていた。この程度ならまだいいのかも? また新潟の国際教養大学は、先生も生徒も「外国語(原則英語)」授業とか。大学レベルなら、そういう特殊な大学があってもいいのかも? なんといっても、中嶋嶺雄さんが学長だったから。中嶋嶺雄氏の『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』 (祥伝社黄金文庫)は紹介ずみ。

中国の研究家としても著名な中嶋氏だが、秋田の国際教養大学(公立大学法人)の学長でもある(故人)。その学長としての立場から、自らの大学の良さを綴った本。授業は英語が原則。海外留学も一年は体験させる。図書館は休みなし24時間オープン。就職率は100%。しかも一流企業多しと。大学受験の難易度も東大、京大に継いで阪大並みとか。なぜ?と。でも就職率100%といっても、4年で卒業するのは入学者の半数程度とのこと。その点でも海外の一流大学並みの厳しい進学基準があるようだ。また中嶋氏は、英語の早期学習導入に賛成の立場。


日常生活にさほど英語が必要でない以上、普通の日本人は、そんなにはマスターはしようという気にもならないのかもしれない。翻訳書もたくさんあるし……。原語で読むのは、特殊な研究者?。

帯にも推薦の名を連ねている藤原正彦氏の国語論である『祖国とは国語』 (新潮文庫)も以前、面白く一読したものだ。成毛眞氏の『日本人の9割に英語はいらない』 (祥伝社)も、それなりに共感を持って一読したものだった。

そもそも英語ができる人に、英語不要論をいわれると(?)ちょっとヘンな気もするが…。僕のように英語がほとんどできない人間にすれば、英会話などをマスターするために必要な時間とお金は、好きな日本語の本の読書(や特定嗜好分野の映画鑑賞)に回したほうがいいということになろうか‥‥。

とはいえ‥‥。これまたなかなか安保法制のように、より正しいのはどっちかということが、単純には決められない?
いや、そんなことはない? まぁ、英文法も日本語の口語・文語文法もあまり好きではない科目だったから‥‥。

とはいえ、先の中嶋氏といい、泉幸男氏の『英語学習の極意』 (文春新書)のような語学の達人であると同時に、ちゃんと健全な愛国心もある人もいるし。バカなことを言っている外国人相手に向こうの「原語」「言語」で反論する人材を一定数育成することも必要だろうし。

また未読だが、ベンガル系インド人としてロンドンで生まれ、三歳の時にアメリカに移住し育ったジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』 (新潮社)という本が出ている。


「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。
子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。



家族環境故にバイリンガルなのに、さらにもう一つの言語を学び、第三番目に覚えた言葉で、そういう「創造的」なことを達成する人もいる。そのあたりのことに、松家仁之氏も注目して、「イタリアに恋する女性作家」(毎日新聞2015年10月6日夕刊)として紹介していた。
なるほど‥‥。須賀敦子氏も、フランスに留学したものの肌になじまず、途中で旅したイタリアにつよく惹かれ、住みつくことになったとのこと。

「英語を置き去りに、第三の言語で小説を書き始める小説家は、ラヒリをもって嚆矢とし、つづく作家が出てくる、としたらどうだろう。そこには文学のあらたな光が射し込む可能性があるだろうか」

日本にもドナルド・キーンのような人がやってきて、住みつき、作品を発表している。松家氏も施氏も、水村美苗氏の『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』 (ちくま文庫)に言及もしているが、日本語が亡びると、キーンのような人につづく「外国人」もいなくなる。「日本に恋する外国人作家」「日本に移住する外国人作家」をもっと生みだすことも肝要では。

やはり、我々日本人は先ずは「日本語」を愛して使って広げていく努力も忘れてはいけないのではないか。その上で、外国語は英語も含めて、もちろん排斥・排撃することなく、ある程度受容して、それぞれのレベルで使いこなせばいいのではないか。

まぁ、従来通り、中学レベルから英語学習を始めていけば十分では?

ともあれ、英語やそれ以上の複数の言語がしゃべれる、書けることが唯一最大の人間評価のポイントにならないように工夫すればいいのかも。

しかし、世の中には、『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』 (小倉博行氏・白水社)なんて本もある。これまた未読未購入だか、タイトルからすると、著者はこの難解な外国語をマスターしているかのようである。

とにもかくにも、英語教育システムは、中学からで十分ではないのか。小学校からやりたい人は、家庭教師でもつければいいのだ。そうしたら、金持ちの子供だけが外国語をマスターするようになるなんて叫ぶ単細胞な人が出てくるかもしれない。

でも恥ずかしながら告白するけど、、小学校の時、そうやって英語塾に通っていたなれのはてが、僕だ? 所詮は、生まれつき? 金かければ、みんな誰でも英語ができるようになるとか、数学ができるようになるといったバカな神話は捨てること。

何十もの教科の中から、自然と自分の好きなもの、得意なものが分かり、それをなるべく活かして、自分の人生の活路を見つけていくのが教育の意義。

勉強的科目ができなくても、体育は得意。マットは苦手でも走るのだけは得意。そういう細分化された分野でもいいから、何か自分の得意なもの、好きなものを見つけていけばいいのに‥‥。

一律、画一的な視点からの科目のみを重視したり、それができないと不要なコンプレックスを抱いたり、それはかわいそうだからなんとかしなくちゃということで、百メートル競争を廃止したりバカな悪平等的教育をやってきた。英語教育を小学校から一律にやるのは、やはり愚の骨頂という気がする。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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「NHKスペシャル」もやればできるじゃん? 
(2014・7・23・水曜日)









小山和伸氏の『これでも公共放送か NHK!  君たちに受信料徴収の資格などない』 (展転社)を読んだ。タイトル通りの本。
慰安婦問題も含めて、NHK番組批判論。
まぁ、ジキルとハイドというか、NHKにもいい番組もあるのだろうが、僕もたまに見ようかと思ってチャンネルを点けたのが、著者も酷評している「ジャパンデビュー」の一回目。
冒頭、十分ぐらい見て、アホ臭と思ってチャンネルを変えたものだ。
日本の悪口を言うヘンな台湾人が登場するなと思ったら、実はその人はまともで、彼の発言した対日マイナス発言だけをことさら強調する番組造りをしていたのだから、明らかな偏向番組であったというしかあるまい。訴訟沙汰になって当然であろう。

この前紹介した親日派のトニー・マラーノさんのような人でも、その発言を切り貼りしたら、新韓派みたいな発言に「捏造」することは可能かもしれない。そういうことをNHKは少なくとも、あの番組で一部やったのだろう。偏向番組であったとの批判は免れない。裁判でも一部負けたのは当然だ。

テレビは「読書の敵」になることが多くて、なるべく見ないようにしているが、何が起こっているかの最低限度のニュースとして、また今日は晴れるのかな?という確認、お天気姉さんの渡辺蘭さんの笑顔(これ以上、誰かさんではないけど太らないで!)を見たくてNHKを見ることはある。
NHKのみならず、テレビとは、その程度の清い、薄いおつきあいで十分かしら?
テレビより「活字」の世界のほうが個人的には好きだし。

と思っていたのだが、今日帰宅して、7時半から始まったNHKスペシャル「京都・祇園祭千年の謎」「生中継!幻想の宵山秘められたミステリー」「祭りを彩る謎の至宝」「世界が注目!」「幻の織物」「歴史ロマンと豪商の夢」「圧巻!豪華山ほこ巡行」をたまたま見たのだが、結構面白かった。エロス問題に造詣の深い井上章一先生も登場し、いつものように大胆な井上説を展開しているのも心地よかった?

NHKも現代史イデオロギーにあまり関係のない分野なら、まともな番組も少し作れるのだということを感得した次第。

以前、所要で京都に今頃の季節出かけたことがあった。祇園祭をやっている時だったが、あまり関心はなかった(祭りは全体主義的色彩が濃厚でさほど好きではない。よさこいとか阿波踊りとか、ああいう踊りも、みんなが同じ恰好で踊るのを見物するのはあまり好きではない。煩いし? でも踊りたい人が踊るのはご自由に。ただ、それを見学するしないは個々人の自由。それが保障されるなら、祭りをしたい人が、「私費」&(若干の公費援助)」で原則行なうことに関してはことさら反対はしないが…)。だから、京都での所要が終わったら、祇園祭りも何も見ることなく(ちょっと古本屋は見たが)日帰り。京都で会った人が、この時期に京都に出張するなんて、祇園祭目当てでしょうと言われて「???」と思った程度の非文化人である。

そんな僕であるが、このNHK番組はなかなか面白かった。江戸時代にオランダなどから贈られた幕府への献上品(絨毯やら‥)が、借金のかたで豪商に渡り、それが祇園祭などで披露されているそうな。知らなかった。そして、そうしたものが、貴重な文化財であり、欧州の研究者が驚きをもって見ていたとか。欧州が探し求めていた幻の絨毯が京都にあったから‥‥。
アメリカ軍の空襲が、何らかの事情で、京都が標的から離れたとの説があるが、やはり、空襲の被害があまりなかったのはよかったといえるのか‥‥。吉田守男氏の『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)などを見ると、米軍は、単に、朝三暮四ではないが(?)楽しみは最後まで取っていただけなのかも?

ともあれ、京都に外国人の観光客がやってくるのも、むべなるかな? 
まぁ、京都っていう街にはさほどの関心もなく、古本屋も、京都の古本屋はちょっと仏教色が濃いところが多くて、買いたい本が少なくて辟易することもあるのだが‥‥。
それはさておき、NHKもやればできるじゃん? 問題は、現代史イデオロギーがらみの番組作りには、日教組レベルの単細胞プロデューサーが跋扈しているところなのかな。

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