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2018'07.15 (Sun)

中島岳志さんの『保守と大東亜戦争』に欠けているもの----結果としての「大東亜戦争」による植民地解放論を否定するのは奇怪しい? 朝日新聞は「空想的軍国主義」と同根の「空想的平和主義」に拘泥し、竹山道雄を弾圧したではないか!



中島岳志さんの『保守と大東亜戦争』に欠けているもの----結果としての「大東亜戦争」による植民地解放論を否定するのは奇怪しい? 朝日新聞は「空想的軍国主義」と同根の「空想的平和主義」に拘泥し、竹山道雄を弾圧したではないか!
(2018・7・15)



昨日(土曜日)は、東京周辺は文字通りの「猛暑」となったようだ。

神田の東京古書会館へ行ったものの買いたいものはなし。
いつもなら、その次に高円寺古書会館へ向かうのだが…。この週末は、7・14が200円均一、7・15が百円均一、7・16が50円均一セール…。「良書」が先になくなる可能性があるとはいえ、無理して土曜日に行く必要はなし? しかも、東京古書会館にあった、高円寺大均一祭のチラシを持参すれば、さらに10%オフ…。16日に行こうかな?

ということもあって、神田神保町のあとは、仕事場に行って、ずっと「書類整理」に明け暮れることに…。一仕事を終えて、早稲田のほうで勉強会もあったのだが…。そちらの勉強会に行くついでに馬場の古本屋街に行く時間もなく、またこの猛暑では出かける気力もなく…。

勉強会はキャンセルして帰宅。古女房は相変わらず「週末ギャンブル」なので、やよい軒で100円引きセール(&ウィンナー・ポテトの無料クーポン)で、初めて「南蛮とエビの定食」(960円→860円)を食べた。ううむ…。それほどのモノでは…。やはり、やよい軒は、しょうが焼き定食がベストか?

車中&帰宅して、中島岳志氏の『保守と大東亜戦争』 (集英社新書)を読了。

(こんな内容)→戦争賛美が、保守なのか? ――戦中派・保守論客たちの真意と体験。
評論家・保阪正康氏 推薦! 「歴史の継承は、本質を浮かび上がらせる。
そう痛感させる、刺激的な書である」
戦前の日本の立場に積極的な意義を見出そうとし、第二次世界大戦を東アジア解放のための「聖戦」だったとみなす「保守」派。しかし、戦争を賛美することが、いつから「保守」になったのか?
じつは、戦前日本において保守論客は、軍国主義に抵抗し、批判の論陣を張っていた。あるいは、兵として軍の欺瞞を目の当たりにし、壮絶な暴力を経験したことで、軍国主義・超国家主義に強い嫌悪感を示していた。
すでに鬼籍に入った、戦中派保守たちが残した言葉に向き合いながら、いま、最も注目を浴びる政治学者・中島岳志が、現代において真に闘うべきものはなにかを炙り出す。


竹山道雄氏の『昭和の精神史』 (新潮文庫ほか)をはじめ、田中美知太郎氏の『時代と私』 (文藝春秋)や、福田恆存氏や池島信平氏や猪木正道氏や会田雄次氏の『アーロン収容所』 (中公新書)や山本七平氏や林健太郎氏などの著作・論文などを適宜引用して、「保守派」学者の戦争観を浮かび上がらせている。そうした保守派の中にあっても、より強硬(?)というか、「大東亜戦争肯定論」的な、小堀桂一郎氏や中村粲氏などの論考も、これまた適宜引用しつつ論じている。

本書でも引用紹介されている林氏と小堀氏との雑誌「正論」での論争は、リアルタイムで読んでいたものだ。当時の僕は、林論文を読むと、ふむふむなるほどと思い、小堀氏のを読むと、これまたフムフムナルホドと思う感じだった。会田さんの『アーロン収容所』も愛読(再読)もしたことがあるし、猪木さんも好きなほうの学者だった。猪木さんは「保守」というよりは、「民主社会主義」で、民社党贔屓だったかと。

ともあれ、青春時代の読書体験を思い出すものでもあった。
中島さんは、東京裁判史観を否定し大東亜戦争肯定論を主張する保守派を批判する。その一方、そこまで戦争肯定はせずに、されど、東京裁判史観を否定しつつ,そうした戦前の「空想的軍国主義」と、戦後の「空想的平和主義者」とを同一視して批判した猪木さんやら竹山さんの論考、視点を、それなりにきちんと紹介はしている。それは評価はできよう。

しかし、竹山道雄さんの論考にしても、「戦後民主主義者」「空想的平和主義」に毒されていた朝日新聞が、いかなる「弾圧」を彼に対してしたかという史実を全く無視して取り上げていないのは片手落ちではないか。


『ビルマの竪琴』の著者、竹山道雄さんがエンタープライズの寄港に賛成するコメントを朝日(昭和43年1月17日)に寄せたところ、「声」欄に37歳の主婦の「今いずこ『ビルマの竪琴』」なる、竹山氏を一知半解で論難する投書が掲載されたことがあった。

それをきっかけに、竪琴論争が「声」欄で二カ月近くも続いた。そして、最後には竹山さんの投書を「没」にして論争は終わった。

竹山さんは、朝日的価値観の空想的平和主義史観に反する知識人として、声欄でスケープゴートにされたといえる。

この竹山声欄問題に関しては、竹山道雄氏の『主役としての近代』 (講談社学術文庫)や、平川祐弘氏の『竹山道雄と昭和の時代』 (藤原書店)や、徳岡孝夫氏の『「ビルマの竪琴」と朝日新聞の戦争観』 (諸君! 1985年9月号)、平川祐弘氏の『「ビルマの竪琴」論争 竹山家から「声」欄へ』 (諸君! 1985年11月号)などを参照されたし。

戦前、軍部(空想的軍国主義)の片棒をある時から担ぎ、戦後は憲法9条を絶対視し、非武装中立を愛する反米オンリーの護憲教徒(空想的平和主義者)の片棒を担いだ朝日新聞の「恥部」に触れることは、自称「リベラルな保守」の中島さんにとってはタブーなのか---と思わざるを得なかった。こんな大事な史実を無視するのは奇怪しい。


この本の帯にある「戦争賛美が保守なのか?」という杜撰なフレーズは、編集者がつけたものだろうが、東京裁判史観を否定するのは、竹山さんも小堀さんも同様のはず。だが、「東京裁判史観」を否定するだけで、戦争賛美、戦争肯定と批判する向きもあったのでは? こういう単純な決めつけはなるべく排して、もう少し厳密に、どこまで肯定できるのか、どこまで否定すべきなのか…をきちんと仕分けして論じていくべきだろう。その意味で、エンタープライズ寄港に賛成しただけで、その主婦のような決めつけをするのは、天皇機関説を主張しただけで、アカ呼ばわりするのと同様だったといえようか。そんな空想的平和主義者は、戦前の空想的軍国主義者と同根といえよう。

そのほか、死んだ「保守派」ばかりではなく、生きている勝田吉太郎氏や田久保忠衛氏なども取り上げると尚よかったのでは? また、竹山道雄といえば、娘婿の平川祐弘氏がいるではないか。

また、大東亜戦争肯定論云々に関しては、 「結果としてであれ、太平洋戦争がアジアの植民地解放に貢献した」という言い方はできると思う。大東亜戦争(太平洋戦争)はあくまでも自存自衛のための戦争として始まったのであり、解放を当初の目的としていなかった。それ故に、大東亜解放をそもそも戦争の目的としたものであったというのは言い過ぎだろう。しかし…である。

中島さんが本書の冒頭で、インドの例を出して、 「インド独立が日本によってなし遂げられたとするのは、あまりにも強引な歴史認識であり、インド・ナショナリズムの主体性を無視する暴論のように思えた」「私は保守思想に強く惹かれ、自らも保守派であることを自覚しながら、どうしても保守論壇の歴史認識に共鳴することはできませんでした。大東亜戦争をアジア解放の戦争として『聖戦』視することはできない。リベラルマインドを窒息させた戦前の国粋主義にも同調できない。保守思想と相容れないものが、保守の名のもとに肯定されている。これはおかしい。そんなモヤモヤと反発を抱きながら、悶々としていました。いや、苛立っていたと言ったほうが正確かもしれません」と指摘しているのは、いささか疑問を感じる。

確かにインパール作戦は失敗したが、少なくとも、ビルマやインドネシアを日本は一時的にせよ、支配した。そこで長年君臨していた「白人」を「捕虜」にし、自国軍を形成する訓練を施した。このことだけでも、アジアの植民地の人々にとっては画期的なことだったのは間違いあるまい。白人支配の「洗脳」を解放する出来事だったといえる。
インドネシアでは、敗戦後も一部の日本人兵士が、民族独立のために貢献している。そこからの非正規な戦いは、文字通りの「大東亜解放戦争」であったともいえよう。

竹山さんの娘婿でもある平川祐弘氏は『戦後の精神史  渡邉一夫、竹山道雄、E・H・ノーマン』 (河出書房新社)でこんなことを綴っている。


60年安保に先立つ6年前の1954年のこと――欧州留学のための船旅の寄港地サイゴンから乗ってきたフランスのサラン将軍夫人と、その関係者(ベトナム人)たちの中で、あるベトナム人が、「愛国行進曲」を船中(南シナ海)で平川さんのためにうたってくれたという。コロンボで船のタラップから降り立つと「おまえは日本人か。イギリス海軍がやられたときは嬉しかったぞ。この空を日本機がとびまわった」と見知らぬセイロンの人が空を指さした」という。

「そんな予期せぬ一つ一つが歴史に対する私の感覚に微妙な変化をもたらした気がする。占領期日本とそれに引き続く閉ざされた言論空間の中でインプリントされたお決まりの歴史認識とずれが生じだしたのである」

また竹山氏自身も、 『竹山道雄セレクションⅣ 主役としての近代』 (藤原書店)で、こんなことを綴っている。

1955年にパキスタンに出かけた際、太平洋戦争(大東亜戦争)での日本の敗北は「我々にとって大きな失望だった」と声をかけられたという。プリンス・オブ・ウェールズの話がよく出たとのこと。

あれを日本が撃沈したことは、アジアの植民地下の国々の人にとって大きな希望を与えたのだろう。

パキスタンは元インド。ビルマやインドネシアのように、実際に日本軍が白人を追い散らしたことはなくても、日本海軍が、英国海軍をアジアで打破した「史実」に感動した「インド人」が当時いたのは事実だ。日本の敗戦を残念がったアジア人が多々いた事実を、中島さんは触れていない。これまた片手落ちだろう。竹山さん自身が、そういう話を紹介しているのだから。

だからこそ、結果としてであれ、アジアの植民地を解放したとはいえよう。それは不幸中の幸いだったと日本人が思ってもバチは当たるまい。そういう視点が中島さんになさそうなのは残念というほかない。

あと、今手元に本が見当たらないが、英国の歴史学者クリストファー・ソーンも『米英にとっての太平洋戦争』 (草思社)で、日本は負けたが、アジアに侵攻したことによって、現地住民たちの白人に対する威信は低下し、欧米の植民地統治の存続期間を短縮させたといった趣旨の指摘をしていたかと。これまた結果として、「大東亜戦争」が欧米諸国のアジアをはじめとする植民地統治の継続を不可能にさせたということにもなろう。こういう「歴史認識」は間違っているとは思えない。

中島さんは、本書の「まえがき」で、「毎年、八月十五日が近づくと、保守論壇では大東亜戦争に対する肯定的な見方が論じられ、南京虐殺事件や従軍慰安婦問題をめぐって、あたかも事実が存在しなかったかのような議論が展開されます。----大東亜戦争はアジア解放のための正しい戦いだった。自虐史観を克服しなければならない」と指摘し、そういう正しい戦争だったなどという見解を批判している。

しかし、全面的な肯定論や、慰安婦や南京で捕虜処断がまったくなかったなどと主張する保守派がどれだけいるのか。具体的な名前をださずに、そう言われても?

あくまでも、部分的な結果としての太平洋戦争肯定論、アジア解放論であり、北朝鮮が横田めぐみさんにやったような拉致強制連行といった手法で朝鮮人を慰安婦にしたわけではないとか、アウシュビッツやカティンの森のような計画的に特定民族や捕虜などの虐殺を南京で行なったわけではないとの「歴史認識」は、あたかも、日本が、戦時中、ナチスドイツやスターリンや北朝鮮と同じようなことをやったというような「歴史捏造」を正しく是正するためのものでしかないと僕は思う。こういう捏造を修正するのは間違ってはいない。

ともあれ、保守派の知識人が、戦前の一部というか主流派的な軍部を批判したのは当然のことであり、また、彼らが、反共リベラルというか、民主的な社会主義との親和性があったり、時には無政府主義にも理解を示したりしたこともあったわけで、そのあたりは、浅羽通明氏の『アナーキズム 名著でたどる日本思想入門』 (ちくま新書)をひもとくといいのではないか。
勝田氏や田中美知太郎や猪木正道氏や山本夏彦氏などの正論系保守派知識人とアナーキズムとの接点について詳述されていたかと。

また、髙山正之氏の『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった!』 (ワック)なども関連書として読むと、中島さんの本の足りないところを補うことも可能だろう。
また近年、『ヴェノナ』やフーバー元大統領の手記『裏切られた自由』 (草思社)なども公開刊行されてきている。こういう新しい歴史史料に、猪木氏や竹山氏が接したら、太平洋戦争などに関しての見解が「修正」される可能性もあったかもしれない。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!


以下、竹山道雄さんに関して書いたものを再録

(以下再録)

『戦後の精神史 平川佑弘 伊藤隆 ジョン・ダワー』を書くのは誰だろう?  中島岳志? 牛村圭? 
(2017・11・16・木曜日)


平川佑弘さんの『戦後の精神史  渡邉一夫、竹山道雄、E・H・ノーマン』 (河出書房新社 )を読了(かなり前に読了していたが、書くのが遅れた)

著者は竹山さんの娘婿。そういう立場もあって、 『竹山道雄と昭和の時代』 (藤原書店)という本でも、知識人としての竹山道雄のことを本格的に論じている。これは大変面白い本だった。竹山さんがベルリンの壁などを見て論じた東独・西独比較論を、東独擁護の共産主義的知識人がいかにノーテンキな発言で批判をしていたかなど、容共リベラルの知性の低さ(反知性主義)をモロに再認識させてくれる本でもあった。

今回の河出の本は、竹山さんと同時代を生き、知識人として発言しあった仲でもある渡邉一夫という人を中核というか、キーパーソン(狂言回し?)として、その左右にいたかのようなE・H・ノーマンと竹山道雄を比較しながら論証している(僕はあまり渡邉さんの本は読んでない。ノーマンの本も)。

その中にあって、平川氏の私的な知的領域の思い出話なども適宜挿入されながら綴られている。60年安保に先立つ6年前の1954年のこと――欧州留学のための船旅の寄港地サイゴンから乗ってきたフランスのサラン将軍夫人と、その関係者(ベトナム人)たちの中で、あるベトナム人が、「愛国行進曲」を船中(南シナ海)で平川さんのためにうたってくれたという。コロンボで船のタラップから降り立つと「おまえは日本人か。イギリス海軍がやられたときは嬉しかったぞ。この空を日本機がとびまわった」と見知らぬセイロンの人が空を指さした」という。

「そんな予期せぬ一つ一つが歴史に対する私の感覚に微妙な変化をもたらした気がする。占領期日本とそれに引き続く閉ざされた言論空間の中でインプリントされたお決まりの歴史認識とずれが生じだしたのである」

いやはや、あのとき、セイロン空襲のみならず、さらに「西へ」「西へ」と攻めていたら…。ドウーリトルの空襲など、まぐれというか、一回限りの無謀攻撃、日本軍の目を西から東に向けさせる陽動作戦と見破っていたら…。大東亜解放のための戦いは、インパール作戦の前にインド方面で樹立していたかもしれなかったのに…。残念。

僕には、そんな「海外」での体験はないが、子供向けの戦史本で活字を通じて、英国のレパルス、プリンスオブウェールズを航空機で撃沈した事実を小学生で知った時は、「歴史に対する微妙な変化をもたらした」というと大袈裟だが、ザマーミロ、くたばれチャーチル!とは思ったかなと。英国ロンドンの戦争博物館で、その事実やシンガポールでの対日降伏の事実は「軽く」展示されていたのを見たものだった(いまはどうなっているやら?)。

とはいえ、開戦百日の栄光は…。ミッドウェーはまだしも、ガダルカナルもまだしも、その後は連戦連敗…。戦争が悲惨だということはいうまでもない。ただ、どうしてそういう悲惨を招いたかという「戦争体験」は、同盟国の選択のミスにもつながるわけで、ナチスドイツと同盟し、スターリンソ連と中立条約を結んだ弊害は大きく、その弊害とて、向こう(ソ連)が条約を無視をするなら、こっちも先にやって、北進するということもありえただろうに、そういう戦略的決定をなしえなかったということも…二度としてはいけない過ちとして、歴史の教訓としてもっているべきだろう。それも戦争体験の風化…と関連する。


話を本に戻す。安保闘争前後の東大や社会の雰囲気などをリアルタイムで語れる人もすっかり少なくなった。ちなみに、平川氏は1931年生まれだから、60年安保のころは20代最後。学者の卵として多感な時代だったのでは。 『歴史と私――史料と歩んだ歴史家の回想』 (中公新書)の著者でもある、伊藤隆さんは1932年生まれ。このあたりは、将来、 『戦後の精神史 平川佑弘 伊藤隆 ジョン・ダワー』なんて本を誰かが書くことになるかもしれない。

ともあれ、大変知的刺激に富む本だった。ノーマンに関してはまず手厳しい。

「生前は特に大学者とは思われていなかった。ところが死んでから二十年経って、北米日本史学界で反ベトナム戦争世代が台頭するや、ノーマンはにわかに新興左翼世代の偶像と化し、日本でも後光を帯びる存在となった」のである。

ジョン・ダワーなどの煽動もあったようだ。そんなノーマンを渡邉などは庇ったりもする。丸山真男も。ノーマンはカナダ人の宣教師の子供として日本で生まれたものの、日本語能力はさほどではなかったそうな。カナダの外交官として、戦後すぐに日本にやってきて、左翼分子の救出に動き、目障りな近衛文麿を東京裁判の被告人の席に告発もしていく。そのくせ、都留重人は同じカマ(共産主義スパイ?)のメシを食べた「同志」であり、彼が木戸幸一の姪の夫ということもあり、手心を加えたりもしたそうな。

そういった戦後史の言論空間を中心とした戦後史を論じており大変面白い本だった。おやっと思ったのが、よくいって「リベラル保守」(?)の中島岳志氏が、毎日新聞で、竹山道雄さんがノーマン批判を『昭和の精神史』 (講談社学術文庫ほか)でしていたことを「評価」している点を、平川氏が是としているところだ。その記事はチラリと一読した記憶はあった。

原文は以下の通り。


<保守的な見方>を見直すべき時

 竹山道雄は『ビルマの竪琴(たてごと)』の作者として知られる。ある人は、冷戦期に共産主義陣営の問題を鋭く指摘した保守派の論客として記憶しているだろう。そんな竹山の選集が、全4巻の予定で刊行され始めた。

 第1巻には、保守のあり方を問い返す重要な論考が含まれている。例えば1937年に書かれた「将軍達と『理性の詭計(きけい)』」では日本陸軍の有力軍人を批判し、1940年の「独逸・新しき中世?」ではナチスの政治を問題視している。竹山は自由を擁護するが故に、日本の軍国主義、ナチスのファシズムを批判し、そこにソ連の共産主義と共通する問題を見出(みいだ)した。これが、竹山の保守としての立ち位置だった。
 竹山は1956年、『昭和の精神史』を出版した。ここで批判の俎上(そじょう)に載せたのが、戦後の歴史学を席巻した「進歩主義の論理」である。代表者はE・H・ノーマン。彼は、超国家主義の問題を、封建制を温存させた政党・財閥・官僚・軍閥の前近代性にあるとし、進歩主義的な歴史観から演繹(えんえき)的分析を行ったが、竹山はこれに異議を唱える。そもそも超国家主義者たちは、「一君万民」の国体を根拠とした階級社会の打倒を訴えた人たちで、財閥や政党政治を敵視した。彼らは国体論に基づく国家改造を訴え、クーデターやテロを繰り返した。そんな超国家主義を封建主義者と論じることはできない。彼らは、明らかに「革新勢力」の一派である。2・26事件のような青年将校による暗殺事件は「イデオロギーによる直接行動」であり、「そのイデオロギーとは、ブルジョアジー体制を仆(たお)して国家社会主義をたてようという、一九二〇年三〇年代の世界に共通の現代的なもの」である。

 問題は、この革新勢力が「天皇制」を乗っ取ったことにある。明治以降、天皇は「機関説的性格」で位置づけられてきたが、「ファッショ的革新勢力」は「統帥権的性格」へと読み替え、秩序を反転させる論理を構成していった。結果、1930年代以降の対外的な危機の拡大を前に、「統帥権的性格」の天皇観が支配的となり、ヘゲモニーを獲得しようとした軍人たちが、流用するようになった。革新派軍人は「国体の本義」を手中におさめることによって、「権威を確立」していったのである。

 超国家主義は封建制の残存ではない。重臣・政党・財閥・官僚・軍閥による明治以降の「天皇制」の続きでもない。そうであるように見えたのは、「同じ天皇が別の性格のものとして活用されたから」だ。問題は国体論と結びついた革新主義にある。

 竹山の見るところ、戦前の日本は国家としての統制を失っていた。その結果、「大局の目途もなく作戦を拡大させてしまった」。なぜそのようなことが起きたのか?

 それはファッショ的革新イデオロギーが世論の支持を集め、数多くの便乗者を生み出し、制し難い空気を生み出したからである。この悪循環が拡大し続け、誰もが抗することのできない状況を生み出した。日本は国家としての統制をとることができない「世の中全体が半ば発狂」した状況に陥った。

 竹山曰(いわ)く、その最たる例が日中戦争である。この戦争は無計画と無統制の極みであり、戦争を解決するために戦争を拡大するという悪循環が支配した。

 侵略をしていた日本人は、主観的には侵略をしているとは感じていなかった。みんな防衛をしていると感じていた。国が存続するためには勝たなければならない。戦いを完遂しなければ、積み上げてきた成果が水の泡となる。これまでの犠牲を無駄にしてしまう。だから、戦争を拡大するしかない。「それは致命的な悪循環だった」

 軍事と外交がばらばらで、統一した国家意思を喪失した日本が負けるのは当然だった。「強力な非有機体と化した軍隊が無限の大陸で戦争したのだから、国はまさに亡(ほろ)びるべくして亡びた、というべきであろう」。これはノーマンが指摘した「封建制の温存」という問題とは「あべこべの姿」である。むしろ既成の秩序が崩壊したが故に起こった悲劇が、日本の敗戦だった。

 一方で、竹山は右派の歴史観にも厳しく釘(くぎ)を刺している。一連の戦争をアジア解放の聖戦として正当化すべきではない。アジア諸国の独立は「日本の意図からよりもむしろ歴史の成行き」であって、日本の軍事力による植民地支配からの解放という歴史観は成り立たない。右派による聖戦史観は「一つの観点によって歴史の全体を体制化しようとしたもの」であり、左派の「上からの演繹」と同根の存在に他ならない。

 このような竹山の<保守的な見方>を、我々はもう一度、見直すべきであろう。大東亜戦争開戦から75年が経(た)とうとしている。当時、20歳だった人は、もう95歳だ。竹山をはじめ、戦争を20歳以上で体験した保守派の論客は、概(おおむ)ね鬼籍に入っている。彼らの声は、現在の保守派に継承されていない。

最後の「彼らの声は、現在の保守派に継承されていない」あたりに、中島氏の「底意」(皮肉?)が込められているように思える…。右派といっても、中島氏の考える「右派」や「現在の保守派」とは、いささか架空概念的なものであろう。

平川氏は、この中島氏のエッセイの一部を引用し、 『竹山道雄と昭和の時代』の中の「林健太郎・小堀桂一郎の昭和史論争」で分類した、3つの歴史認識について述べている。

①「東京裁判の判決の正義を肯定し大東亜戦争の日本の不義を認める」(井上清・ノーマン、日本外務省の一部高級官僚、新聞社幹部、中共)
②「東京裁判の公正を否定し大東亜戦争における日本側の正義を認める」(林房雄ほか)
③「東京裁判の公正を否定するが、しかし軍部主導の日本側にも不当性はあるとする」(竹山、林健太郎、河合栄治郎とその弟子筋)

そして、③--「中島氏もいまやこの立場を良しとするのである」としている。ううむ?、中島氏から「違う」と言ってこないか? 「その通りです」と言うなら「偽装」?

「河合栄治郎とその弟子筋」となれば、猪木正道氏、関嘉彦氏、田久保忠衛氏なども入ってくるだろう。猪木氏は『軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ』 (中公新書)の著書もあり、そのあたりは竹山氏と酷似しているともいえようが、戦前の日本がファシズム国家ではなかったという竹山氏の指摘を、中島氏などが肯定するのかどうか?

③の立場の「軍部主導の日本側にも不当性はあるとする」のはもちろんのことと僕も思うが、「敵国側にも不当性はあるとする」立場から、南京虐殺や慰安婦問題や原爆投下問題やシベリア拉致抑留強制労働問題や満洲婦女子問題などを、研究告発するのは当然のことであり、偏狭なナショナリズムとは何の関係もないと思う。
竹山氏が存命なら、慰安婦問題など、同様に批判していただろう。この問題に関して朝日新聞に遠慮して沈黙する「リベラルな保守」(?)を手厳しく批判していたことだろう。

林健太郎氏と小堀桂一郎氏の「正論」(雑誌)での歴史論争は面白く、当時、交互に拝読していたものだった。林さんを読むと、なるほどと思い、小堀さんを読むと、それもそうだな…と? 我ながらバランスが取れていると?

だが、林健太郎氏にも『外圧に揺らぐ日本史―教科書問題を考える』 (カッパ・ホームス)という本がある(1987年の刊行)。
「大東亜戦争全面肯定論」はありえないが、あくまでも結果としてアジア諸国の解放につながったのは、不幸中の幸いだったと見ることは可能であり、シナ事変はともかくとして、日米戦争などに関して、自衛戦争であったかどうかなど、歴史論争はありえるだろう。

平川氏が中島氏と違って批判の対象としている岩波書店社員の馬場公彦氏(『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』の著者)のほうが、まだ中島氏より、③の立場を「良しとする」人かもしれない。いや、それはないか?

河出の本に出てくる牛村圭氏への不当な処遇(平川氏の推薦で、右派雑誌に論考を発表したために、就任する予定だった某大学の左翼学長が、そんな奴は就職させないと内定取消をされたことがあったそうな。学問の自由をすぐに口にするこういう岩波文化人的な左翼学長のお里が知れる? ゴーマンな権力・権威主義者?)のことが書かれているが、牛村氏には、痛烈な中島批判論文がある。
「中島岳志著『パール判事』には看過できない矛盾がある」(「諸君!」2008・1月号)。十年近く前の論文で記憶は不鮮明だが、そうそうとうなずいた覚えがある。中島氏のパール論、同様、竹山論に関しても「看過できない矛盾がある」かどうかは注意深く行間を読むべきかもしれない。



ジキルとハイドの読書----夏の早朝に竹山道雄の炯眼に触れるとは、これは快楽なり! そのあと、『快楽のグルメ』を読むのも亦楽しからずや? だが、睦月影郎さんの「反社会的記述」には若干異議あり?
(2017・6・22・木曜日)




夏の季節は、日頃の早起きがさらに早くなる。冬だと、だいたい午前5時前後には起床。それから一時間ほど経過した朝の六時でも外はまっくら。また寒い。

しかし、いまだと午前4時すぎにはうっすらと明るくなる。寒くもない。幸いなことに、今年はいまのところ熱帯夜はまだ東京周辺ではない。扇風機すらつけずに、窓を開けることなく安眠できる。だから快眠? 午後10時ごろ就寝して、そこそこ眠ったなぁと眼が覚め、枕元のソニーの小型ラジオ(時計付き)をポンと叩くと、まだ午前12時半ごろ。いくらなんでもこれでは早起きすぎる。幸いなことにまたウトウトと。

その次に目覚めて、またラジオをポンと叩くと、今度は午前3時すぎ。NHKの深夜便が流れてくる。この時間帯、懐かしのメロディが流れることが多いが、演歌だったりすると最悪。そこそこの歌謡曲ならまだいいが(本日はフォーク。寝ぼけ眼というか「寝ぼけ耳」だったが、はしだのりひこなんかだったか?)。ジャズが流れることもある? ともあれ、午前4時前後に起床し、モーニングコーヒーを一杯。仏壇にも。それからブログの更新をすぐさま終えて、さてと仕事の書類を読破したりするのが最近の朝のルーティンワークである。

仕事の書類があっても、時々、本を手にすることもある。

昨日も平川祐弘氏の『竹山道雄セレクションⅣ 主役としての近代』 (藤原書店)をパラパラとめくったり。

一週間前の6・15(昭和59年)が命日だった竹山さんだが、 『主役としての近代』は、講談社学術文庫にあって、かつて一読した覚えがあるが、藤原書店版には、なんと「単行本未収録コラム集」が収録されているではないか。ざっと、160頁分。サンケイ新聞や朝日新聞や読売新聞などに書かれたエッセイ、コラムが収録されている。それを読み出すと大変面白い。昨今の日本の政治状況などを論じたと思っても間違いがないような的確なものが多い。以下、彼の炯眼の数々を。

1955年にパキスタンに出かけた際、太平洋戦争(大東亜戦争)での日本の敗北は「我々にとって大きな失望だった」と声をかけられたという。プリンス・オブ・ウェールズの話がよく出たとのこと。あれを日本が撃沈したことは、アジアの植民地下の国々の人にとって大きな希望であったのだろう。

「世論は尊重されなくてはならないが、それはルールにしたがって表現されるべく、世論の方でも筋のとおらない感情論はやめなくてはなるまい」

(西独に逃げてくる東独の人々が多いことを指摘しつつ)「どういうわけか、日本ではこれがほとんど報道されない。理論家たちは都合のわるい事実は意識から排除して考えず、その意味を卑小化し、あるいはドイツと日本とはちがうから----というふうに回避する」

「中共では千五百万人が殺されたと算定されています。西独社会党の綱領には書いてあります。『共産主義は、人間の権利と、個人ならびに国民の自治権を弾圧する。……支配者は国民の背中の上に経済的・軍事的力をきずきあげ、これがますます自由をおびやかしている』」

「戦後ずっとそうだった。さまざまの演出が行われた。警職法のときには、この法案が通れば『夜中に目をさますとあなたの枕元に警官が立っている』、また『安保条約が改正されればそれは戦争につながる』とて大騒動になったが、それもシャボン玉のように消えてしまった」

「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義者を利用して浸透する手段としたのだった。そしてこの別ものは、今までのわれわれの常識にはなかった形で、戦争もするし専制も行なう。そういう浸透の象徴的な例があった。ソ連は多数の捕虜を抑留して、思想教育をした。数年たってその人々は、赤旗をふり赤歌をうたって、天皇島に敵前上陸をした。これはあきらかに日本を内から崩すためだった。平和攻勢とは実に悪魔的なものである。ヨーロッパ人は対外的に苛烈でスレッカラシだが、日本人にはまだそういうものへの免疫性がない」

「絶対悪だったはずの原爆への反対運動も、『いずれの国たるとを問う』か否かで分裂した」


「議会では審議をつくした上で多数決に従うべく、従ったとて少数党の恥ではない。少数党が自分の主張をとおすためには手段をえらばず、審議を妨げて時間を空費させるのでは、議会は少数党の裁可がなくては運営ができないことになる。国民は何のために選挙をしたかわからない。戦術的動機や牛歩やすわりこみで時間をつぶすのでは、合法的かもしれないが、それは多数党の単独裁決を理由づける。もっと討議を主にして、どちらの側の党員でも理のある方に賛成するということにはならないものだろうか」

「日本では政治がおくれている。その一例に、少数党が討議を延引するためには手段をえらばないから、多数党が強行裁決をする。これでは、討議をつくした上で多数決にするという、議会政治のルールはなりたたない」

「『中共が核武装をするのは、アメリカから脅威されているからやむをえない』という弁護があるが、それならばその中共の脅威に対して、日本が核武装するのもやむをえない時がくるだろう。中共がアジアで、フランスがヨーロッパで、自分だけが支配的地位にいるべきだという根拠はない」

そのほか高見順が、日本と中国が地続きだったら、「無数の日本人がぞくぞくと中共に逃げこむだろう」と述べたこともあったそうな。「これに対して私はいうすべを知らなかった」と唖然としたそうな。

オランダで向こうのインテリと話をした際、日本人は侵略思想がある、朝鮮を奪った、自分は朝鮮人から深刻な対日恨みをきいたことがあるというので、「日本は朝鮮を三十六年間支配したがオランダはインドネシアを三百五十年領有したではないか」と反問すると、「いや、われわれはインドネシアを開発し、鉄道をしき、学校をつくり病院をたてた。文明をひろめた」と反駁したとのこと。

竹山道雄さんの謦咳には一度だけ接したことがある。それだけに、遺著の数々を読む際にも、感銘が深くなる。(以下略)。

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2018'07.03 (Tue)

「ガラパゴス左翼知識人」の本(『私物化される国家--支配と服従の日本政治』)を読んだ後には、「知性補給」のための一本、いや一冊として、岩田温さんの『「リベラル」という病  奇怪すぎる日本型反知性主義』 や、古谷経衡氏の『日本を蝕む「極論」の正体』 を読むといいね!







「ガラパゴス左翼知識人」の本(『私物化される国家--支配と服従の日本政治』)を読んだ後には、「知性補給」のための一本、いや一冊として、岩田温さんの『「リベラル」という病  奇怪すぎる日本型反知性主義』 や、古谷経衡氏の『日本を蝕む「極論」の正体』 を読むといいね!
(2018・7・3)





知人が、私立大学の左派リベラル(「ガラパゴス左翼知識人」)・三バカトリオを知っているか?と聞いてきた。

法政大学教授の山口二郎氏と、上智大学教授の中野晃一氏と、京都精華大学専任講師の白井聡氏だと言う。あぁ、なるほどね…と。他にも「保守」ぶっている左派リベラル教授はいるけど、私立大学ではなかったか…?

ともあれ、いずれも一冊か二冊…は読んでいるかなと。

知人の「証言」が正しいかどうか(多分正しいと思う?)、念のために再確認するためにも、彼らの最新作を読んでみようかということで、まずは中野氏の『私物化される国家--支配と服従の日本政治』 (角川新書)を読んだ。ほかには白井聡さんの『国体論 菊と星条旗』 』(集英社新書)、山口二郎さん(共著)の『圧倒的! リベラリズム宣言 (TOPICA2018 現代の対話篇)』 (五月書房新社)がある…。

中野さんといえば、こんな本を以前、寸評したことがある。再録。


台風の進路の「右傾化」はありますが、日本の政治の「右傾化」はどこに?
(2015・8・24・月曜日)


中野晃一氏の『右傾化する日本政治』 (岩波新書)を読んだ。
中野氏は、1970年生まれで博士号も取っている大学教授である。
昨今の日本政治経済体制は、右傾化、歴史修正主義、新自由主義に向かっていると決めつけている。

「みんなの党」を「新右派政党」とみなしているのはまだいいとしても、日本維新の会を、「新右派・極右政党」とまでレッテルを貼っている(151頁)のには、いささか唖然とした。「極右政党」? 「次世代の党」に対して言うならまだしも(いや、それもおかしいだろうが)。
安倍首相などを「歴史修正主義者」と決めつけて議論したりしている。

昔読んだ、ソ連中共バンザイの大内兵衛氏の『社会主義はどういう現実か ソ連・中国旅日記』 (岩波新書)や、レーガンの軍拡は危険、西側の一方的軍縮こそ肝要と説いた坂本義和氏の『軍拡の政治学』 (岩波新書)などと同じような読後感を僕は覚えたが、共感する読者もいることだろう。

そういう読者も、こういう本と、この前紹介した、酒井亨氏の『戦後七〇年「右傾化」批判の正体』 (イースト新書)とを読み比べるといいのではないか。タイトル的にも同じようなテーマを追究しているから。僕は、酒井氏のほうが、はるかに論理的で面白くてタメになると思う。そう思わない人もいるだろうが、それはそれでいい。異なる見解を読み比べることが肝要だから。

及川智洋氏の『左翼はなぜ衰退したのか』 (祥伝社新書)も参考になるだろう。古くさい左翼教条イデオロギーに毒されていると、正しい政治認識が持てない現状を学ぶことができる良書。

それと、保坂政和氏の『左にいると真ん中も右に見える』 (日本工業新聞社)も一読するといいかも。

それにつけても、本土への影響はあまりなかった台風14号は父島あたりから激しく「右傾化」した。関東には上陸することもなく、右傾化故に、太平洋をぐるりの右寄りに進路をススメていった。

台風16号も小笠原周辺にはやってきたが、右傾化しつつあるようだ。
「右傾化」はこのような使い方は正しいが……。

中曽根時代の防衛費GNP一%突破や「大きな航空母艦(不沈空母)」論あたりから、「右傾化」や「軍国主義復活」と言われてきたが、あれはもう何十年前のことやら? 

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!




アベノミクス、キシノミクス、安倍イズムに見る新国家主義は、新国民主義でもあるのかも?
(2015・11・9・日曜日)



1961年生まれの柿﨑明二氏の『検証・安倍イズム  胎動する新国家主義』 (岩波新書)を読んだ。
「美しく誇りある」父のような国家が国民一人ひとりを子のように指導し、守っていく――。異次元緩和や賃上げ税制など経済政策から教育、憲法改正、安保法制まで、安倍流国家介入型政治に通底するのは「国家の善意」である。その思考と意志を、国会審議や諮問会議議事録など「首相自身の言葉」から探る。


岩波新書で、この前読んだ中野晃一氏の『右傾化する日本政治』が、あまりにもリベラル左派的な内容で、安倍首相などを「歴史修正主義者」と決めつけて議論したりしているのには疑問を感じた記憶がある(東京新聞でさえ、この前、ある記事で安倍首相にたいしては、「歴史修正主義者」と見られがちだが……といった趣旨の指摘をしていたが、断定まではしていなかったし)。この本も、そんな内容かな‥‥とあまり期待せずに、でも、一応「岩波リベラル」的な筆者の見解を知ることも大事だと思って読み始めたら‥‥。

いや、この本はというか、著者は冷静な筆致で、「安倍イズム」を検証しており、参考になる本だった(中野晃一氏のお名前もちょこっと出てくるけど、櫻井よしこ氏や長谷川三千子氏や佐伯啓思氏や櫻田淳氏のお名前なども‥)。

あとがき的な「おわりに」で、あるロックバンドの歌「ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない」を引用している。1990年にこの歌を聴いたという(著者とほぼ同世代だが、僕は知らない歌手、歌詞)。
著者は衝撃を受けたという。

「その世界観が、当時の、未熟だが、変化しつつあった私の社会像と重なったからだ」と。

新聞記者として取材をして6年が経過し、「世の中には様々な人間がおり、個々の人間は『すごくいい奴』にも、『とんでもなく悪い奴』にもなり得ることに、気づき始めていたところだった。そんなあたりまえのことも知らずに能天気に大学を卒業、一人前の顔をして記事を書いていたことが今では恥ずかしい」「『天使と悪魔が共存している』などとも表現される人間の両面性。人間がそうであれば、この世界は天国にも地獄にもなり得る。逆に言えば、どちらであり続けることはない。人間と世界の極端な両面性は、社会と相対していく時に持たなければならない認識だと思う。特に、国家を考えるときには必要な視点だろう」‥‥。

僕も、いつごろからか、人間、みなジキルとハイド、ネバーセイネバーの精神を持つようになった。多分、曽野綾子氏のエッセイなどを学生時代のころから愛読したからであろう。彼女は、「戦争」に対しても、そういう認識を有していたかと。

ヒトラーやスターリンや毛沢東や金日成でさえ、何かいいところはあるのだろう。北朝鮮とて、僕は、地獄に近い国家だと思うけと、いいところもなきにしもあらず‥‥ではあろう。昭和天皇だって、悪いところもあるだろう。

ただ、大事なのは、その比重をよくよく観察すること。悪は9割、善は一割なのか、悪は半分五割程度、善も半分五割程度なのか‥‥。その上で、善悪、勧善懲悪の判断基準なり、好悪の評価レベルを見ていく‥。評価する、批判する‥‥と。

ともあれ、祖父・岸信介との国家観、経済観(キシノミクス)などとの比較も含めて、「安倍イズム」をさまざまな角度から、感情的に決めつけることなく、冷静に多角的に検証している。
感情論がしばしば展開されていた『右傾化する日本政治』よりは、知的刺激を受ける本であった。

安倍首相がやっている「アベノミクス」のひとつともいえる、経済への一定の関与(女性重役を増やせ、給与を上げよ‥)を、アメ(法人税引き下げなど)とムチで要求するのは、国家政策として当然考慮していいものであろう。
本書によると、一部保守派女性論客(長谷川三千子氏、櫻井よしこ氏)の反発がそうした政策に向けられているそうな‥‥。このあたりは‥‥。

東京裁判史観や憲法に対する安倍氏の認識が、親米か反米かの議論も取り上げられているが、所詮、これらは、憲法制定時のアメリカ側と日本側の高揚した単細胞的リベラル意識による誤解(?)が構築したものと考えれば、9条の改正などに関しては、アメリカ側とて、共和党も民主党も「ゼッタイ反対」を唱えることもあるまい。

そもそも、国家主権制限条項でしかない「9条」を、自由世界に共通する穏健な適正な条項に改めることは危険なことでもなんでもあるまい。針小棒大に「ゼッタイ反対」を唱えているのは、いささか時代錯誤の旧左翼か、日本を「仮想敵」とみなすことが国益になる一部の極端な国家でしかない(そんな「絶対的護憲論者」の中からも、9条をより理想的に変えるべきだとの「護憲的改憲論」も出てきている。これは、所詮は「変種」でしかないものが多いようだが、知的には「一歩前身」とはいえよう)。

本書で若干物足りないのは、例えば、いまの天皇が、原発や歴史認識で「リベラル」的だとされていることに対しての「安倍イズム」との矛盾があるのかないのかの詳しい分析評価がなかったことぐらいか。

あと、安倍首相が、自らの国家観に対抗する相手(敵?)としているのが、「台頭する中国」「日本人拉致事件をひき起こした北朝鮮」と並んで、「社会主義的な思想傾向とその具現者としての労働組合、そして労組が支持する政党なのではないか」と指摘していたが、中国、北朝鮮は頷けるとしても、「労組」が敵対勢力なのか?
もちろん、日教組や自治労などは「容共リベラル的な思想」に毒された労組故に、毛嫌いするべき相手ではあろうが、連合内の旧同盟・民社系労組、総評右派系民間労組に対しては、そういう考えは持っていないのではないか?(以上再録終了)



ともあれ、『私物化される国家--支配と服従の日本政治』は、『右傾化する日本政治』 の続編の一冊ともいうべき本。

冒頭「まえがき」で、

「国家を私物化しているケースは程度の差こそあれ、アメリカのトランプ、ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮の金正恩、フィリピンのドゥテルテ、そして弾劾されるに至った韓国の朴槿恵などとあったという間に列挙することが可能」「日本においても」「安倍晋三の下、森友・加計学園疑惑や昭恵夫人による著しい公私混同はもちろんのこと、ジャーナリスト伊藤詩織さんの訴える強姦容疑において、首相に近い山口敬之元TBS記者に逮捕状が出ていたにもかかわらず直前に逮捕取りやめになった事件などが明らかになり、安倍とその取り巻きによって『私物化される国家』の姿が浮かび上がってきた」と指摘。

このあたりからして、針小棒大?という感慨が浮かんでくる。

かろうじて共産独裁国家も、「私物化される国家」として例示しているが、それらと、アメリカ、ロシア、韓国、日本を同列に扱うのは?

だって、中野さんが指摘しているように、朴さんは弾劾されてしまって、いまは犯罪容疑者。そんなことは普通独裁者は起こらないもの。死ぬまでその地位に安住してこそ、「国家私物化」だろう。

プーチンやドゥテルテだって、選挙を勝ち抜いている(ライバル候補を弾圧しているとも聞くが…)。トランプだってそう。

本書では、クリントンのほうが総得票数はトランプより多かったのに、「特異な選挙制度の作用によって、初の女性大統領の代わりに、自由民主主義的な価値観を真っ向から否定するようなアメリカ大統領を誕生させる」ことになったと嘆いておられる。

しかし、そういうのは、ルールを無視した感情論でしかない。プロ野球だって、昔は全試合やってその勝率一位が優勝だったのが、パリーグが前期・後期に分かれ、全試合勝率一位でも、前期優勝チームと後期優勝チームとが決戦して、全試合勝率だと三位だったのが、「優勝」して日本シリーズに向かうなんてことが出てきた。

最近は、どちらも上位三位チームによる決戦なんてことで、三位チームが「優勝」して日本シリーズに出て、「日本一」になるなんてことも可能になった。それは「ルール」であり、それにのっとって「優勝」「勝利」を決めることになっているのだから、あれやこれやと理屈をつけて、トランプ勝利を貶めても虚しいだけだろう。

そもそも「特異な選挙制度」というのは、北朝鮮や中国の選挙システムでは? ホンコンの例を見ても分かるように、なにせ、自由に立候補することすら困難というか、ほぼ不可能。立候補者と当選者とが同一数?

中国や北朝鮮なんて、要は、「共産党」の党員でないと、選挙に立候補できず、立候補したら当選が確定の選挙システムのようなもの。日本で実行するとなると、「自民党」党員のみが立候補できて、立候補したら即当選確定。首相以下、主要役所等々、すべて自民党党員。自民党価値観に歯向かう価値観を表明する言論出版の自由も御法度。中野さんの本も刊行できるわけがない。

それでこそ「私物化される国家」といえよう。そういう事例として、かろうじて「まえがき」で中国や北朝鮮の「国名」を出しているが、あとは本文では特に触れてもいない。

「支配と服従の日本政治」? いくらなんでも誇張しすぎだろう。「支配と服従の金正恩体制」とか「支配と服従の習近平体制」とか言うならまだしも。

アメリカの新聞に「日本でリベラリズムは死んだ」なんてコラムを発表したこともあるそうな。そのあたりを産経新聞が「日本を貶める日本人をあぶりだせ」と題したコラム(産経抄)で指摘し、「随所に左派文化人らしい偏った主張が見られる」と批判したこともあったそうな(名指しはしていない)。

それに対して、

「日本を貶める日本人としてあぶりだすぞ」と脅しが発せられているらしい」「興味深いのは、保守反動勢力の機関紙を自任しアンチ・リベラルの急先鋒であるはずの産経なのだから『リベラリズムの死』を歓迎しそうなものなのに、そうした危険がアメリカに伝えられることを『日本を貶める』ものとして嫌っていることである」

等々と反論している。

これまた針小棒大というか、自意識過剰?

産経抄は、日本の「報道の自由度ランキング」がある調査で72位となっているが、マルタは47位。そのマルタで不正資金疑惑を追及していた女性記者が殺害されるなんてことがあった。なぜ、そんなに日本の自由度ランキングが低いのか、その背景には針小棒大に日本の報道の自由が制限されているとか言い回っている人がいるではないかと指摘し、そういうおかしな言論にはちゃんと反論していこう、日本にいると気づきにくい、そういう目立ちにくい言論を「あぶりだそう」といった趣旨のものだった。

その一例として、中野氏のコラムを例示しているだけだ。

「あぶりだす(炙り出す)」というのも、「火」という文字がありなんとなく「危険」「脅し」めいたニュアンスを持つ向きもあるかもしれないが、 「火であぶって、書かれている文字・絵などを現し出す」というのがそもそもの意味。

それから、 「隠されていた事実を明らかにしていくこと」「見えなかったものを見えるようにすること」という意味として普通使われるものだ。解明する、顕在化する…といった言葉と言い換えることも可能。それを「脅しが発せられている」と捉えるのは不可思議な発想というしかない。

こういう言語感覚の人が権力を握ると、「炙り出す」は「ヘイトスピーチ」となるかもしれないから要注意? こういう本でも182頁から195頁までに関しては、いい文章も掲載されている。

何はともあれ、言論出版の自由は大切。こういう本が読めるのもいいことだろう。こういう先生の講義を受けるのもまた愉しからずや。

でも、まぁ、こういう本を読んだあとには、岩田温さんの『「リベラル」という病  奇怪すぎる日本型反知性主義』 (彩図社)や、古谷経衡氏の『日本を蝕む「極論」の正体』 (新潮新書)を読むといいと思う。「奇怪すぎる極論」の数々がよく理解もできよう。複眼的視野を持つのに役立つ本は、それなりの利用価値のある本といえそう?

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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2018'06.21 (Thu)

「朝日ぎらい」より「地震ぎらい」になろう? それはともかく、「よりよい世界のリベラル」のために、「進化論」よりも「修正論」が大事かも? みすず書房はネトウヨ出版社なのか?





「朝日ぎらい」より「地震ぎらい」になろう? それはともかく、「よりよい世界のリベラル」のために、「進化論」よりも「修正論」が大事かも? みすず書房はネトウヨ出版社なのか?(2018・6・21)





それにしても、日本列島、あちこちでそこそこの大きい地震が発生している。いよいよ…。
先日、古女房が富山に出かけていた。富山では大きな地震はない…との地元の声を聴いていたそうだが……。そういう「神話」はもうありえないと思う…。
原発と津波がなければ、地震もまだ被害は少ない? いやいや、そうも言えまいが…。とにかく「毒蛇と地震とマナーの悪い喫煙者とアホな左右全体主義者(&太った古女房)は嫌い」というのは、文明社会で共通する常識といえようか?

ともあれ、橘玲氏の『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』 (朝日新書)を読んだ。


(こんな内容)→「明日は今日よりずっとよくなる」。そういう希望がほんらいのリベラル。私たちが、そう思えないのはなぜだろう。 朝日新聞に代表される戦後民主主義は、なぜ嫌われるのか。 今、日本の「リベラル」は世界基準のリベラリズムから脱落しつつある。 再び希望を取り戻すには、どうしたらいいのか?若者が自民党を支持するワケからネトウヨの実態、リベラルの未来像まで、 世界の大潮流から読み解く、再生のための愛の劇薬処方箋!

朝日から出た本にしては、「内容紹介」もまずまず。橘節によるエッセイ本。面白く読める一冊だった。
アベノミクスに対しても中庸な評価。アメリカのトランプ支持者たちについても、 『ルポ トランプ王国 もう一つのアメリカを行く』 (岩波新書)の著者でもある金成隆一・朝日記者の記事を引用紹介しつつ的確に論じている。

いわゆる右派系論壇とネトウヨと結び付けたがる向きがあるけど、橘氏は直接の関係もないとの認識もあるようでマトモ。

そのほか、後半、ちょっと小難しい(?)「理論」などを駆使して、保守、リベラル、リバタリアン等々分析しているのは、ちょっとなくてもいいような気はしたが…。所詮、人の物の見方は複雑なものがあり、単純に区分けできるわけでもない。天皇制度賛成・原発反対、原発賛成・天皇制度廃止という人も少なくないだろうし。アメリカだって、共和党支持者と民主党支持者が結婚する例も少なくあるまい。黒人と白人が結婚するのと同様に。

安倍政治は、

国際社会では「リベラル」、若者に対しては「ネオリベ」、既存の支持層に対しては「保守」、日本人アイデンティティ主義者に対しては「ネトウヨ」

とみなしている。

「保守」の安倍首相は、国際舞台を経験するにつれて「歴史修正主義」から距離を置くようになった。国際社会では”右翼”は相手にされないのだ。--と。

まぁ、「歴史修正主義」はそんなに悪いものなのか? そのあたりは渡辺惣樹氏の『第二次世界大戦 アメリカの敗北 米国を操ったソビエトスパイ』 『戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実』 (文春新書) の二冊の本を読んで、よくよく考えるべきだと思う。橘さんはそうではないと思うけど、巷のリベラルな人は、「歴史捏造主義」と「歴史修正主義」とを混同しているようだから。

スターリンをはじめ、共産主義国家にとって都合のいい歴史解釈を絶対善とみなしている、少々気の狂った人たちは、例えば、カチンの森の虐殺をしたのはスターリンではなくヒトラーだと長年主張してきたと思うけど、それが修正されて、犯人はスターリンでしたとなっても、それは悪しき「歴史修正主義」と批判しているのかしら? そのあたりを検証し、真犯人(スターリンソ連)を徹底的に批判検証したヴィクトル・ザスラフスキーは「歴史修正主義者」なのか。その著作『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』を出した、みすず書房はネトウヨ出版社になるのか?

横田めぐみさんはじめ、拉致されたという証拠はない、北朝鮮はそんなことをしていないと長年主張してきた某東大不名誉教授などは、その主張を未だに「修正」していないのだろうか? 北朝鮮はめぐみさんなどを拉致していたと認めると、悪しき歴史修正主義者として糾弾されているのだろうか? そんなバカな話はあるまい。

このあたりは、倉橋耕平氏の『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』 (青弓社)を読んでも「無回答」といった感じ? 南京虐殺はなかった、慰安婦はいなかったなんて「歴史修正」はしていないのに、しているといわんばかり。「修正」というのは、30万なんてありえないとか、日本軍などによって強制連行された慰安婦はいなかった…といった限定条件下での「修正」作業でしかないのを、全面否定であったかのように論じるのは学問的とはいえないだろう。


ともあれ、橘さんの結論は以下の通り。


「朝日」はかつては憧れだったが、いまでは毛嫌いされる対象になってしまった。そこに社会の「右傾化(アイデンティティ化)」という要因はあるものの、「憧れ」を失った理由はそれだけではないだろう。
重層的な差別である日本的雇用を容認しながら、口先だけで「リベラル」を唱えても、誰も信用しなくなるのは当たり前だ。リベラリズムを蝕むのは「右(ネトウヨ)」からの攻撃ではなく、自らのダブルスタンダードだ。
日本のリベラルにいま必要なのは、保守化した「リベラル高齢者」の既得権を破壊する勇気だ。年金も健康保険も終身雇用も年功序列もなにひとつ変えないまま、若者に夢を与える未来を描くことなどできるはずはない。
とはいえ私は希望を捨てたわけではない。「日本的リベラル」を批判する本書が朝日新聞出版から出ることが、朝日新聞の勇気と良識を示したものと考えたい。


ううむ…。自らフェイクニュース(二つの吉田虚報など)を垂れ流しているのに、フェイクニュースに注意しなくてはと論陣をはったりする「二枚舌」「ダブルスタンダード」の「口先リベラル」が、朝日流リベラリズムへの信頼性を低下させているとの認識のほうがより重要だとは思うが…。

朝日新聞と朝日新聞出版とは一応別会社だし、より根源的な朝日批判の本である、元社員の長谷川煕氏の『崩壊 朝日新聞』(ワック)などが朝日新書として刊行されたりすれば、「朝日新聞の勇気と良識を示したもの」ともなろうが……。

さておき、橘さんの本は面白い本だった。「リベラル」を考える上では、ほかにも、山口真由氏の『リベラルという病』 (新潮新書)や、岩田温氏の『「リベラル」という病  奇怪すぎる日本型反知性主義』 (彩図社)が参考になる。とりわけ岩田さんの本を読むと、「朝日的リベラル」が可笑しい(奇怪しい)理由がよく分かる。「悪しきリベラル的二枚舌」をまずは修正することから始めるといいだろうに。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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2018'04.18 (Wed)

親は××でも子は立派? 河野太郎とグリーンスパンとに共通する思想的基盤(アイン・ランド)とは?



親は××でも子は立派? 河野太郎とグリーンスパンとに共通する思想的基盤(アイン・ランド)とは?
(2018・4・18)






2018・4・17毎日新聞で、 「蔵書拝見」というコラム欄に河野太郎外相が登場し、なんとアイン・ランドの『水源』 (ビジネス社)を「自由な生き様 共感」ということで愛読書として紹介しているのが目に止まった。しかも、彼は、ジョージタウン大学に留学している時に、この分厚い本を原書で読んだという。いやぁ、親は××でも子供は立派だ?

僕は本欄でしばしばアイン・ランドに言及してきた。しかし、情けないことに、一部、読み始めたものの読了するのを早々と断念し、いつも積んどくに終わっている云々の言い訳としての「言及」でしかない。たとえば、こんな感じ。


ニートと古本屋とアイン・ランドが世界の「自由」を救う? 01/23/2013
 
ところで、正月休みに読もうと思っていたアイン・ランドの『われら生きるもの』 (ビジネス社)も結局、冒頭少し読み進め、面白そうだと感じつつも、また積んどく状態になってしまった。ううむ。
気を取り直し、ネットでアイン・ランド関連の情報をみていると、彼女の『水源』 (ビジネス社)などを訳している藤森かよこ氏のブログというかホームページが目に止まった。

その中で、オーウェルの『1984』のネタの一つとなったのが、アイン・ランドの小説『アンセム』 (未訳)ではないかと指摘し、著作権が切れているというので、その全文を訳出していた。
藤森氏によると、「これは、一人称がない世界に住むひとりの若者が、一人称を見出すまでの物語です」とのこと。アイン・ランドは前書きで「集団主義」を批判して書いたとも指摘している。

冒頭から「法律はこう定めている。人間は誰ひとりとして、ひとりでいてはいけない」「ひとりでいること、孤独は大きな犯罪であり、すべての邪悪さの原因だから」そして「多数から生まれるものならば、何でも善である。ひとりから生まれるものは、何でも悪である。我々は、この世に生まれて最初の呼吸をしたときから、そう教えられてきた」「兄弟みんな、同胞たちのために役立つ苦労をすること以外の人生は、人間にはありえない」と…。

ううむ、意味深いか? これは長篇ではないので、一通り一読した。だが…。抽象度の高い作品故、なんとも言えない、うまく言えない読後感が残った次第。でも、一人でいて何が悪いということになれば、実はニートこそが自由のための偉大な戦士ということもありうるだろう。共産圏では「ニート」は許されない「存在」であり、自由で、ある程度の豊かさがなければ、ニートは生きていけないのだから。

ともあれ、集団農場に関しては、F・ベロフの『ソヴェート連邦集団農場の歴史』 (国際新書)なる名著がある。こんなもの、人民公社同様に称賛していた人々や社会勢力があった「過去」をどう評価したらいいものだろうか。

昔ソ連に行った時、バクーかどこかの集団農場経営者が模範的な答えをするのを聞いて(ほんの少しの自留地での農業生産量が、集団農場での生産量と比較して、かなりのものになりますよねと質問したら、そんなことはないと否定するのを聞いて)、アホと思ったことがあったなとふと思い出した次第。30年近く前のこと。



この歳では、3Pは可能だが、4Pは無理? 三大都市(トリプル)デパート古本市に出掛け…今年の古本屋行脚はピリオド 12/29/2012

12月28日にて仕事納めになった人も少なくないであろう。
僕も早めに休みを取ったり、その分休日出社したりアトランダムではあるが、今日(土曜日)から人並みに冬休みに入った。

この間は積んどくしている分厚い本(アイン・ランドの新刊『われら生きるもの』ビジネス社。そもそも「旧刊」の彼女の本『水源』『肩をすくめるアトラス』ビジネス社も長年積んどくだが?)などにチャレンジし、一日二冊読破をしたいものだと思うのだが、家の掃除やらあれこれ雑用も多く、結局そうならない…。
幸いなことに(?)、この年末年始は古本屋さんも休みが多く、古本市もデパートはともかく、古書会館も閉まっている。出かけようがない? デパートの古本市も過日すでに出かけた。以下はその報告(略)。


このように、アイン・ランドの『われら生きるもの』『水源』『肩をすくめるアトラス』 (ビジネス社)はいつも手元にあるのだが…(あれ、そういえば、最近行方不明?)。

この前、新高円寺駅近くのブックオフに行ったら、なんと『肩をすくめるアトラス』が、文庫になって刊行されていたので驚いたものだった(三冊だったか。出版社はアトランティス)。

なにせ、単行本は1270ページもある。『水源』も1000頁超えている。こんな分厚い本、普通の人が読めるだろうか? アマゾンのレビューを見ると、しかし、読破している人も結構いる。偉い!

僕が一冊の本として、いままでに読んだもので、一番分厚い本といえば、 『わがアメリカンドリーム―レーガン回想録』 (読売新聞社)だろう。950頁近くあったかと。これはハードカバーだったから、並製本のアイン・ランドの本より、分厚く見えるかもしれないが…。自称「レーガン主義者」としては、やはりこの本は読破しないといけないと思って刊行当時一読したものだった。だが、リバタリアンではないので……。

そのほか、アイン・ランドの本は、 『利己主義という気概』 (ビジネス社)も訳出されている。こんな名著を訳出しているビジネス社は本当に偉い! 一流出版社というしかない! ビジネス社からベストセラーを出している副島隆彦さんの強いプッシュ(脅迫?)でもあったのか?

ともあれ、河野外相はアイン・ランドとの遭遇をこう述べている。


「The Fountainhead(水源)」を手に取ったのは、留学先の米ジョージタウン大の長期休暇の時だ。待ち合わせ中のワシントンの書店で背表紙が目に飛び込んできた。入学前のサマースクールで、イラン系のルームメートが読んでいたのを覚えていた。「どんな本?」と聞くと彼はしばらく考え、「ロビン・フッドは良くない、という本だ」と言った。彼の解説はこうだ。「ロビン・フッドに助けられ、金を受け取った人たちは努力しなくなるので良くない。自分で努力するのが大事だ」
 迷わず読み始めた。ロビン・フッドは出てこないがストーリーが面白い。登場人物の語りに引き込まれ、建築家の主人公に共感した。「俺はこう思う」と言って聞かず周囲に流されない。「今の流行はこうだ」と言われても、「そんなの関係ねえ」と相手にしない。忘我されてもあきらめない。(中略)。
著者がリバタリアニズム(自由至上主義)の思想家なのは、だいぶ後に知った。読んでいる時は政治的背景は意識せず、主人公の生き様に自分を重ねていた。「ロビン・フッドは良くない」という解説は言い得て妙だと思う。ルームメートがそう語った場面をいまだに鮮明に覚えている。


共産圏(北朝鮮?)に甘い(?)オルブライトさんの外交ゼミに所属していた時、英語文献を次々と読破しなくてはいけない環境下、四苦八苦していた時に、この本と出会ったそうな。それだけに、印象にも残ったようだ。

そういえば、浜田和幸さんが、 「アメリカ経済〈守護神〉の隠された過去──グリーンスパン(FRB 議長)を操るカルト女流作家」と題したエッセイを『文藝春秋』 (2000 年3 月号)に掲載していたかと。これは、リアルタイムで面白く一読した記憶がある。

この「カルト女流作家」がアイン・ランドのこと。彼女を「カルト女流作家」と形容するのはいささか問題ではあろう。だが、グリーンスパンが、彼女に強い知的影響を受けている史実を紹介していたかと…。彼の自叙伝『波乱の時代上下』 (日本経済新聞出版社)にも当然、彼女のことが出てきたのでは? さて積んどくはしていたはずだが…。

ともあれ、河野太郎さんとグリーンスパンとの間に意外な知的共通性があったとは?

早野透氏の『政治家の本棚』 (朝日新聞社)は、 さまざまな政治家の蔵書拝見というか、読書体験、愛読書などを尋ねるといった趣向の本だった。聞き手の偏見(?)もあって、内容的には玉石混淆だったか? 本は読めば賢くなれるというわけでもないが…。

そういうふうに「本」との遭遇は、その人の思想や考え方や人生観に大きな影響を与えるもの。10代、20代前半にどんな本と出会ったか…。河野太郎さんは、比較的いい本に遭遇したと言えるのではないか。

まぁ、そういう多感な時に、 『女教師』なんかに遭遇すると…。いやいや『ヘルマンとドロテーア』もある? 「良書」も「ジキルとハイド」。「悪書」とて、マイナスばかりではあるまい。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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2018'02.25 (Sun)

健康増進法改正で、土佐の恥(?)ともいうべき「ひろめ市場」も禁煙になるのやら? 「食べて良し、飲んで良し」はいいけど、「吸って良し」はお断り! 思想や悪臭はネットでは伝わらないかもしれないが、喫煙者であれ、非喫煙者であれ、遮断物がなければ、タバコの悪臭は伝わってくるから…?







健康増進法改正で、土佐の恥(?)ともいうべき「ひろめ市場」も禁煙になるのやら?
「食べて良し、飲んで良し」はいいけど、「吸って良し」はお断り! 思想や悪臭はネットでは伝わらないかもしれないが、喫煙者であれ、非喫煙者であれ、遮断物がなければ、タバコの悪臭は伝わってくるから…?
(2018・2・25)






昨日(2018・2・24・土曜日)は、東京周辺は日中は穏やかな日より。暖房がなくても…。そのせいか、鼻がムズムズ。目も少し痒い? 花粉が飛んでいるのでは…。アレグラを飲む季節となりしか。

昨日(2018・2・24)日経の朝刊の付録版の「何でもランキング」は「市場」特集だった。記事見出しは「食べて良し 飲んで良し 市場へいらっしゃい!」となっている。

一位は金沢の「近江町市場」。ベスト8の市場の中で、僕が立ち寄ったことのあるのは一つだけ(高知県・ひろめ市場)。

ここでは、「各店舗で購入した食材や料理はテーブルに持ち寄って飲食できる」と紹介され、「平日の昼間から、地元の人と観光客とが一緒にお酒を酌み交わすにぎやかな様子は見て回るだけでも楽しい。一度足を運んだら、やみつきになること間違いなし」とのことだが、さてはてそうかいな?

僕は二度と足を運びたくない気分になったけど…。

というのも、信じられないことに「屋内施設」で、昼間で、子供なんかも多々いるというのに、タバコ吸い放題だったからだ。ほんのすみっこの一部に「禁煙」の席が、アリバイ工作の如くあったかのように記憶しているが、歩きタバコをする人もいるし、一歩この市場の中に入ったら悪臭まみれになること必至。テーブル席で食事をする人の半ばが喫煙していた。当然周辺に悪臭は拡散する。日経記事写真も、テーブルに「灰皿」らしきものがみえる(小さいので灰皿ではないかもしれないが、灰皿に見える)。

この季節、花粉に、さらにタバコの悪臭で攻められたらもう大変。アレグラだけでは治らない?

ともあれ、健康増進法が改正されたら、この「ひろめ市場」は「禁煙」になるのかな? まぁまぁ広かったと記憶しているけど。子供など観光客もよくやってくるのに、喫煙天国になっているので、人によっては「ひろめ市場」を「土佐の恥」とみなす向きもあるのでは? 東京有楽町にある「まるごと高知」の二階にあるレストラン「おきゃく」は全席完全禁煙。何度か立ち寄ったことがあるが、ここは「ひろめ市場」と違って、野蛮なタバコの悪臭に悩まされることはない。同じ「高知」の施設でも、月とスッポンというしかない。

「ひろめ市場」も「広め(ひろめ)」の施設だったから、隅っこに二重ドアの喫煙ルームを設置するのはスペース的にも簡単ではないか。というか、二重ドアの喫煙可能な宴席ルームを設置して、「食べて良し 飲んで良し 吸ってよし」の特別ルームを設置することも可能なのでは。そういう棲み分けをする努力を運営者が早めにしておくべきではないか。

それはさておき、昨日は、高円寺古書会館へ。

藤原てい氏の『果てしなき流れのなかに』 (中公文庫)、佐藤隆氏の『花の孤島』 (東京信友社)、西巻敏雄氏の『日本海上労働運動史』 (海文堂)、キャザリン・マーシャルの『夫とともに  一軍人の妻の年代記』 (光文社)を購入。持っている本もあるようだが……。

そのあと、仕事場に寄って雑用を若干やって帰宅。

読みかけだった坪内祐三氏の『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。』 (幻戯書房)を読了。雑誌に連載されていた(原則故人のみ対象の)「戦後論壇の巨人たち」から始まり、ジャーナリズムなどについて論じたエッセイをまとめた本。ほぼ同世代なので、いろいろと読んだ本やら雑誌やら重なる部分もあり(重ならない部分もあり)、懐かしくというか、面白く読んだ次第。論壇人の中で、僕なら、ほかに大澤正道さんを取り上げてほしかった?(ただ、大澤さんはまだ存命中だが)。

坪内氏は、父親がダイヤモンド社の社長だったこともあり、家には親の蔵書や購読している雑誌などが沢山あり、それらを自然と手にする機会も多かったようだ。我が家は、父親は理系人間で田舎ということもあり、親の蔵書で知ったのは源氏鶏太あたり。小松左京の『日本沈没』 (光文社)なんかは僕が購読したのを読んでいた…。「朝日ジャーナル」「自由」などは自然と手にして中学高校時代から読み始めたものだった。

林達夫やら、そういう名前は谷沢永一さんの本(『紙つぶて』だったか?)などから興味を持つようになったか。40年近く前の話で、再読もあまりしていないから忘却の彼方。

海外の人として、シドニー・フックとかトリリングやポドレッツやトンプソンやソンタグなども出てくる。僕は英語ができないので、翻訳書を少し読んだ程度。「コンサヴァティブなアナキスト」として紹介されているドワイト・マクドナルドという人は初耳だった。

日本では、 『現代人の思想 セレクション1 大衆の時代』 (平凡社)に、「パロディについて」というエッセイが翻訳されている程度? いつか読んでみたいと思った次第。

そのほか、坪内氏と鶴見俊輔氏との対談の中で、マックス・イーストマンが出てきて、どっかで聞いた名前と思ったら、 『レーニン死後 トロツキー圧殺とスターリニズムの抬頭』『若き日のトロツキー』 (風媒社)、 『自由を侵害する社会主義 偽妄の一世紀についての省察』 (日刊労働通信社)の著者ではないか。風媒社の本はどちらかを持っていて、どちらかを持っていないような…。日刊労働通信社の本は大概持っている(だが、大概積んどく?)。再読すべきか…。

そんなことを思い出しながら一読した次第。

ともあれ、ネバーセイネバー。あとは野となれ山となれ!
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